マクロの眼

プロジェクトエンジニアを僭称(?)中

「笠間Facebook記事転載のナゾ」カテゴリのアーカイブ

当のセンダイジンが、あまりの人の多さに「人混みがなのでこの時期は街中に行くのを避けていて、実はここ10年は街中で見ていない」とか「え?あの広瀬川の花火が本体じゃないの?」とか言い出す、案外多くの原住民がニガテとしている地元祭典「仙台七夕」

「紙が一杯垂れ下がっていて、アーケードを歩きにくいんだよ」という苦情(?)をカサマも良く聞き、また県外からのお客様を御連れてしても「なんか同じようなデザインの吹き流しが続いていて変化がない」や「交差点ごとに布教活動している人がいる」などと忌憚のない意見を聞くことがあるですよ。

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そんな仙台七夕も慎重に見ていくと、IT革命と不景気への予兆から、何やら大きな変革の予感があるのでした。

8月6日 18:34 · 仙台市 ·

【量より質の転換の兆し?仙台七夕】
移動がてらブランドームを通って七夕を鑑賞するなど。

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毎年新たなデザイン提案をし、趣向を凝らしている鐘崎さんの七夕飾り。年を経るごとにスマホで撮ってSNSなどにアップする人々多数。

七夕飾りにも、「インスタ映え」が要求される時代になったようです。

同時に、ブランドームなどでは七夕飾りの密度が往時に比べてだいぶ「薄くなった」ようにも感じます。
おかげで写真が撮りやすい。

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これはポジティブに解釈すると、「数千本の七夕飾りの圧巻を是非とも体験を!」というやや時代遅れのコンセプトから、一本一本趣向を凝らした精緻なデザイン性と、そこに込められたメッセージ性などが重視され、「質への転換」というパラダイムシフトが起こる可能性があるかもしれませんな。

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実際、あいかわらずの圧倒的な量で押す東西のクリスロード・中央通りを歩くより、ブランドームの薄い密度だが「写真を撮る」という体験が伴う方が、歩いていて「楽しい」。

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体験する仙台七夕」はだいぶ昔からの課題ですが、案外スマホの登場とSNSの普及が、仙台七夕の「様式」に何かしらの変化を起こすかもしれませんなぁ。

<補足>

今を去ること17年ほど前の21世紀初頭、大学生時代にゼミの活動の一環で仙台七夕の歴史を調べ、その中で今はなきサンモール一番町とあおば通に面した「森天祐堂」のオーナーにインタビューをしたことがあったですよ。

ご存じの通り、森天佑堂の先代オーナーは、今や仙台七夕の標準となった「七夕飾りの上部の丸いくす玉状のナゾの球体」を開発したことで知られています。当時の文献などを調べると、単に「その後普及した」程度に書かれており、その後仙台七夕を象徴するようになったので、さぞ当時は斬新で好評だったかと思ったら、どうも最初は「なんだべ、ありゃ」という反応だったとか。あのくす玉はダリアの花を模したものなのだそうですが、回りからは「いや、そもそもなんでダリアよ」というごもっともな指摘を受けていたそうで。

とはいえ、当時は戦後間もない頃と言うことで、その「どさくさに紛れて(考案者の息子である当時のオーナー曰く)」様々な風習がそこで試され、生み出されたとか。

あのくす玉の誕生もそうなのですが、七夕飾りに線香を付けて火を付ける「七夕線香」を戦後にゲリラ的に「復活」させたものの、何年か後に消防署からの指導で禁止になったエピソード。一時期は「仕掛けもの」がメインだった時期があり、お店総出でストーリーを作ったりセリフや音楽を練習(当時は生演奏)したりと大わらわだったなど。

聞いたこともないようなクリエイティブなエピソードが一杯出てくる出てくる

特に「七夕線香」のおかげで、仙台七夕はかなりお香の匂いが商店街に立ち込み、五感で楽しむ祭りであったらしい。これらの調査を元に、将来の七夕の姿について、七夕線香の復活やCADを使って上部構造物の立体的な設計(当時宮城大学ではAuto CADがパソコンに入っていた)など、「原点回帰と新しいデザインの方向性」という内容の提言書を作った(というゼミの課題だった)ところ、これが河北新報に取り上げられ、結構反響が大きく、ご高齢の方から手紙や当時の資料などを頂き、また所々で七夕講釈を頂きました。

特にその講釈の一つで興味深かったのは、高齢者の「戦前の七夕飾りの紙には匂いが付いていた」という証言で、これに関しては森天佑堂さんと同時に取材した鳴海屋紙店さんの年配のスタッフ(取締役だったかも)の方も、かつては七つ飾りの一つの巾着を匂い袋でオーダーされたことがあったとおっしゃっており、その「匂い」「香り」は仙台七夕の重要な要素だった可能性があります。

ところが、「匂い」「香り」というのは保存も伝送もできない、現地でしか分からない要素。

例えば、東日本大震災の映像や画像は大量に残されたものの、あの被災地の独特のニオイだけは全く伝えられていない、あの時あの場所にいた人間のみが共有できること。この「かつての仙台七夕は薫り高かった」と言っても、その匂いが本当のところどういうものだったのか、七夕線香の香りはただの線香の匂いだったのか?などなど、一度途切れると現代の我々は本当の匂いが分かりません。

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その意味で、今後仙台七夕はどんどんインスタ映えするような進化を遂げるかもしれませんが、せっかく拡散されるであろう壮麗な画像も、画像を見ただけで満足されてしまっては困るわけで、インターネッツでは伝送できない、匂いや味など、目に見えるもの以外の設計、そこでしか体験できないものの設計が実は鍵だと、不肖カサマは意見具申するであります。

実は市街地が海に隣接しておらず、内陸大都市であるところの仙台でありますが、やたら歌やら写真やらで広瀬川押し割りには、港に面した日本各地の大都市と違い、河岸段丘上に建造された仙台は意外に親水しにくく、実は広瀬川の水を触ったことがない市民が多数と思われる仙台。

あまりにも広瀬川を神聖視した結果、当の市民ですら想像上にしか存在しなくなってしまった不思議な川。伊達な河床19904976_1511269942245452_429331705563648651_n.jpg

そんな、仙台に風穴が空くのか注目の取り組みが行われたのでした。

場所: 大橋 7月9日 19:43 · 仙台市

【伊達な川床のナゾ】
大橋近くで実施されていた「伊達な川床」威力偵察するなど。伊達な河床19642553_1511269785578801_4017921862104035762_n (2).jpg


威力偵察なので、しっかりビールと料理研究家阿部加奈子先生のイタリアンをしっかり食べるのである(仕事です(たぶん))。

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今回のこの試みはかなり実験色が強いようなのですが、なかなかcozyな空間が実現。都心近くこの空間とは。

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かなり将来にヒントが収集できるすばらしい「テストマーケティング」だなと。

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何より、公共利用以外が極めて難しい河川敷の使用許可を取ったのは、関係者の皆様の努力の賜物かと。
観光活用がOKになったのは、それこそ震災の3日前に改正された河川敷占有許可準則から。継続的な実績の積み重ねが重要かもしれません。

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ところで、社会的な意義は専門家の方々にお任せするとして、商業的な視点を提供するのなら、より「食」のコンセプトをどう強めるか、とかですかねぇ。

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やはりここは3C分析、競合分析!
鴨川の納涼床は、様々な食が楽しめるのが実は本質価値だし、貴船は流しそうめん、高雄は京料理

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今回どういう経緯でイタリア料理になったのか知りませんが、例えばウニ最盛期のこの時期、シチリア式ウニ料理中心で、ひたすらイタリア推しってどうよ。

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ほら、目の前の石造りの大橋とか、対岸の川内追廻遺跡(跡地)もベネチアっぽいし(?)
支倉常長、イタリア行ったし

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<補足>

かつて広瀬川沿いの高校に通っていたカサマ。

学園祭の後には段ボールを集めて高さ2mほどの段ボールロボを広瀬川河川敷に建造し、それを嫌いな先生の名前を冠した「I(先生)人形」と称して着火する「昇天の儀」を実施。二層式の「仲の瀬橋」の直下で行った結果、西道路部分に煙が侵入

大いに焦るも、後輩達には「古来から伝わる伝統だ」と冗談を言っていたところ、10年後に久々に学園祭に行ったとき高さは4mを超えるほどに進化しており、いつの間にか「戦後間もなく始まった物理部伝統の祭り」とか言われていて、なるほどこうして歴史はねつ造されていくのだなと感心するほど広瀬川の有効活用を行っていたカサマ。

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しかし大人になって知ったのは、多くの広瀬川河川敷は公園指定されており、I人形を燃やすのはもちろん、そもそも火気厳禁芋煮すら実は禁止であるという驚くべき事実を知ったのです。

そんな状況に風穴が空いたのは、元締めである国土交通省による「河川空間のオープン化」。震災直前の2011年3月に河川敷占有許可準則が改正された後、多くの先人達の努力により実績が積み重なり、昨年2016年6月よりついに民間企業による民間企業等への河川空間の開放を促進の方向に。

国交省自らが事例集を作って啓発を行い、

http://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shigenkentou/pdf/jirei_kasenkukan_1602.pdf

それどころか、今や国交省に相談窓口「かわよろず」の開設をする程まで積極的になる

http://www.mlit.go.jp/common/001133398.pdf

という変わりぶり。「かわよろず」とか、キャリア官僚のネーミングセンスもなかなかではないか!

2011年以降、仙台はおろか東北では一件も活用事例がなかったこの河川空間のオープン化ですが、最近は地元自治体も積極的になりつつあるとのこと。先進地域が既存の取り組みと融合させつつ、少しずつ実績を積み重ねてきたことと同様、是非とも関係者の皆様にはここ数年の岩盤規制解除の流れを奇貨としていただきたいところ。

次は是非とも秋の芋煮会を牛越橋付近と広瀬橋付近以外でもできるようにして欲しいなり。

(河原町駅に近い宮沢橋付近は、河原町だけど河原じゃなくて公園だから、火を使った芋煮会禁止だから注意だよ!)

<補足2(2017/7/18追記)>

その後、今期の仕掛け人であるNPO法人都市デザインワークスの榊原進さんと、とある会合で直接話す機会があり、実は行政側との交渉は「そこまで困難ではなかった」との意外な事実をお聞きすることができたですよ。

要は我々民間の側の「ヤルキ」や「企画力」などの問題が大きい。

仙台という街は市民活動が活発な割りには、行政にリーダーシップを期待するやや矛盾した雰囲気があり。そこはくそ真面目に市民としての使命感とかでプレッシャーを与えるカタチも悪くはないのですが、案外「あれやってみたら、面白いんでねスカ?」という、街を楽しむ姿勢で少しずついろんなことをトライしていくことが、街の雰囲気や文化を変えるのかもしれませんなぁ。

今や仙台を代表する伝統「的」芸能の一つとなった「すずめ踊り」。その歴史は意外に新しく、現在我々が認識しているいわゆるすずめ踊りは「新・すずめ踊り」と言われ、30年の歴史しかありません。

そこにはある意味では仙台らしい、日本最大のバブル遺産の街、仙台の象徴的な歴史秘話ヒストリアがあるのでした。

【バブル遺産】

定禅寺通りのすずめ踊りは、あまり考えずに適当に撮っても、其れなりに楽しげに写って「写真映え」するのでオススメ。

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ところでこのすずめ踊り」。

個人的には「バブルの遺産」のイメージ強し

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カサマが小学二年生の時に青葉まつりが始まり、その時には「すずめ踊り」なるものは聞いたこともなく
小学三年の時に山形に引っ越し、小学6年で再び仙台に戻る(1989年)のですが、その時にニュースで「伝統の踊り」とか紹介されている。
運動会でも、扇子を持った「すずめ踊り的な創作ダンス」を若い教員が中心となって教えて披露する。

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むう?
カサマが仙台にいなかったわずか3年で何が起こった?!

時はバブルの狂乱時代
扇子を持って踊り狂う姿は、「ジュリアナ東京」を彷彿させていたですよ。
すずめ踊りとは何たる乱痴気騒ぎ破廉恥であることか、全く日本はどうなってしまうのか、実に嘆かわしい。そう中学時代には思っていたのでした。

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あれから25年。
30年も続けば、三世代が踊る姿も見られ、立派な「伝統」になりつつある。
手締めの「伊達の一本締め」も、いつの間にか祭りで定着しているし。

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80年代に「開発」された祭りにも関わらず、スズメ踊りが「YOSAKOI」ほど古臭く感じず、「似非伝統」っぽくないのは、この優れた「お囃子」の曲調にあるんだと感じるんですね。軽快なリズムの中に、実は少しもの悲しがある曲調は、30年たっても陳腐化した感じがなく、むしろクセになる。
今年から在来線の発車メロディーもこれになり、ますます定着するのでしょう。
(ただ、発車メロディだと、少し安っぽい気がするのはなぜだ・・・)

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お囃子は共通ながら、踊りの内容はかなり祭連ごとに異なり、適度に自由度があることが、この祭りが今や仙台のみならず西日本などでも祭連が生まれて踊られるようになった背景にあるんでしょうな。
誰かが本気になれば、「YOSAKOI」的に全国普及きるやもしれぬ。

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伊達武将隊も震災後のスタートですが、今や普通に青葉まつりに適応し、必須の存在感になっているし。

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山車が夜の巡行を始めたのは、意外にも震災後でここ5年の話し。
こうして伝統は「創られる」

この「現代に【復活】の形で新たに生み出された伝統」の開発経緯は、詳細に記録に残っています。

「伊達の一本締め」なんて、震災後の普及だ。

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この祭りが始まった時の中心は、当時の青年会議所や役場の方々の尽力が大きかったそうで、カサマより二世代ほど上の世代ですな。
今や私の子供世代がそれを受け継ぐようになっており、承の軌跡がいたるところで観られます。

私に子はないがな!

今や「生まれる前からすずめ踊りはあった」世代も多く踊るようになり、その進化深化、そして真価は、現生世代が愉しみながら伝承できるかにかかっておるんでしょうなぁ。

<補足>

かつてカサマが宮城大学の学部生だった西暦2001年頃、学長の野田先生の授業の中で、YOSAKOIソーラン祭りの仕掛け人である長谷川岳氏がゲスト講師として招聘され、伝統祭りが存在しない札幌に、新しい祭りをインストールするこれまでのプロセスと今後の戦略についてお聞きしたですよ。

当時祭りは10年目を控え、実行委員会の株式会社化のタイミングでして、長谷川氏はIT起業ブームに沸く当時、ホリエモンなどと同世代の「新しいタイプの起業家」として紹介されていたと記憶しております。

YOSAKOIソーランが舞踊として世に登場した時期(1992年)と仙台の「新・すずめ踊り」が開発された時期(1987年)は案外近く、この二つの伝統芸能「的」舞踊祭りの普及プロセスが、今後どのようになっていくのか非常に興味深かったわけです。当時の長谷川氏のプレゼンを聞いて、「最初は学生ならではの、若さ故の『勢い』がメインだったが、今や法人化、しかもNPOではなくて株式会社化(当時は最低資本金1000万円が必要な時代)で祭りの定着を図るなど、札幌は実に戦略的だ」と感心したことを覚えています。

あれから15年。

当時、「本質が似ているな」と思われた二つの祭りは全く違う普及ストーリーを辿り、個人的な結論から言うと「すずめ踊り」の方が理想的な普及の仕方で「文化」として根付き、今後の発展性が望めるな、と思っております。デカルチャー!

大きなポイントは

  1. 拡大志向(YOSAKOIソーラン)か、浸透指向(すずめ踊り)か。
    舞踊型の祭りがない地域をターゲットに、日本全国各地に「YOSAKOIソーラン」を普及させて、「本場」としての札幌を確立。だがその代償として、札幌市民の多くがまつり自体にそれほど愛着がなくむしろ反発を持っている層も。対して「すずめ踊り」は、たまたままずは自分たちで楽むことを優先(別に「浸透戦略」を誰かがリーダーシップを以て企図して設計したわけではない)にし、今や小学校や職場などで「祭連」が生まれ、市民に愛される。これは現代の「地産他消型 vs. 地産地消型」のマーケティング戦略論に通じるところがありそうです。
  2. 自由すぎる(YOSAKOIソーラン)踊りと、共通のお囃子と両手扇など、適度な制約と自由度(すずめ踊り)
    一般庶民には自由すぎるフィールドは扱いにくく、適度な共通ルールと制約があった方が、多くの人間にとっては参加の敷居が下がり、またむしろ工夫の余地を生み出す。
  3. 歴史継承の編集度合い
    一応、藩政期の「仙台祭り」のストーリーと青葉神社(実は藩政期とは無関係で、歴史の浅い明治期に創設)を組み込み、「石工の踊り」の発掘など意外に精密で巧妙に編集されていて、重厚さには欠ける相応の歴史に対する発掘作業の手間リスペクトがあった。

と言ったところで、西暦2000年前後にYOSAKOIソーランが全国各地で猛威を振るったときの、一仙台市民としての焦りは結果的には杞憂であったようです。

仙台はおば祭り(1985年)、光のページェント(1986年)、すずめ踊り(1987年)、ジャズフェス(1990年)、仙台大観音開眼(1991年)と、バブルの勢いで特定の時期に様々な文化がインストールされ、現代の仙台のイメージとベースが形成された感がありますが、「すずめ踊り」のように細かくその普及プロセスを見ると、現代でも通用するインストール手法が偶然実行されていたりして、案外その知見は参考になります。

バブルに聞け!

バブル遺産の街、仙台ならではの歴史に学ぶ姿勢として、今後もバブルにリスペクトしながらこの街の未来を考えていきたいと、不肖カサマは改めて認識を新たにするであります。

あらゆるものがロストしたロストジェネレーションであるところのカサマの世代は、「飲み会の席で日本酒を大いに飲む」という昭和期の慣行を現役で行う世代と、「そもそも飲み会って、お酒飲まなければダメですか?」という世代の双方に囲まれ、また双方を理解する特殊層なわけですが、そうは言っても「乾杯のビールの後は日本酒」などという、よく考えたら日本古来からの伝統でも何でもなく、おそらく100年も歴史はない近代的な慣行が、実はそもそも東日本特有の一時的な現象であり、東京以西は乾杯の後の飲み物は焼酎ベースかウーロン茶だということに気づいたのが2008年の東京留学時。

そうした中でも、カサマの東京時代の男友達は日本酒よりも焼酎が多い中、なぜか女友達は日本酒飲みが多く、しかも新潟の日本酒の名前をよく知っている(当時はまだ「獺祭」がこれほど首都圏でもてはやされる前)。確かに新潟は蔵の数や著名な銘柄も多いが・・・。

その背景のナゾを解くヒントを、先日新潟にサンセットを見に行くついでに道の駅で車中泊した際に偶然得たですよ。

2017年5月1日(月)

【トライアル&リピートモデル】
新潟市の道の駅「新潟ふるさと村」にて車中泊
「政令指定都市の道の駅」の実力がいかほどのものか?そう思って入ると、想像以上の実力。これは凄い。

ちょうど県内の蔵のフェアをやっていたのですが、これがさらにびっくり。
ほとんどの蔵の主力商品で、個性豊かな「一合瓶」を用意しているではありませんか。まさか昨年優秀賞とった越路吹雪や最高金賞取った笹屋茂左衛門まで・・・。

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これを売り場の前面に陳列して「売れ筋」にし、一升瓶を奥に置いて「見せ筋」に、そして本命の四合瓶を「売り筋」にしておる。
案の定、積極的な試飲を受けつつ、観光客が数本単位で一合瓶の方を土産用と自分用に組み合わせて、かなりの本数を買っている。そして同封するリーフレットにはメーカー直販のサイト誘導

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これはブランディングに欠かせない、典型的な「トライアル・リピート・モデル」。これをほとんどの蔵が実践しているとは!?

このカサマ、酒の全体的な各蔵の総合力は宮城が最強と心得ておりますが、もともと酒呑みのおっさんどもは兎も角、若い世代や女子の皆さんが、妙に新潟の酒に詳しくて愛好するのは、こんな切磋琢磨と努力が背景にあったわけです。

一番自信があって(高額で)オススメの酒は一合瓶を用意する。
「一合瓶はコスト高だし面倒臭いし客単価が下がるからやらない、やっても二線級の。」とか言っている宮城と真逆ではありませんか。。。

これがいわゆるマーケティングの差というやつか・・・。

いやぁ、仕事を完全にオフにして新潟に遊びにきたお陰で、仕事の参考になったなぁ。(注意・あくまで今回の目的は、日本海に夕日を見に行くことです)

今回買ったサンプル、経費で出していいですかね?

【補足】

カサマは東京在住時代、歓心を得ようという邪な感情により、仙台から東京に帰る際(当時概ね月1回仙台・東京を往復していた)に日本酒好きな女性の皆さんに何本か日本酒をお土産に買おうと目論んだことがあるのですよ。

ところが、四合瓶ですら3本も持つと2kgを超え、しかも割れ物ということで、とにかく日本酒の輸送が極めて困難

というか、いくら「日本酒が好き」と言っても4合瓶を短期間で消費できる女性はよほどの酒豪で、その結果、無難に萩の月や笹かまぼこを手土産にせざるを得なかったのです。

すなわち、カサマが結婚できなかったのは酒造メーカーがこうした市場ニーズに沿った商品開発を行わなかったためであり、これに関してカサマは単にマーケティング戦略上の瑕疵を指摘するにとどまらず、断固として人権問題と認識して正式な抗議を(以下略)

これを代替するのはもしかしたらワンカップなのかもしれませんが、残念ながらワンカップが常磐線で夕方に満員にもかかわらず空けて飲み干して咆哮するオヤジ達の陰謀によりイメージが悪く、ナンパのツールとして活用するには不適切

しかし、あれから8年あまり過ぎ、少しずつ一合瓶が普及しはじめ、今や東京では一合瓶専門店が現れるなど、人権問題の解決の兆しが見られるのです。

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所狭しと集まった、全国の一合瓶たち。

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ところが、宮城のお酒は一ノ蔵さんと浦霞さん以外に都内で流通している一合瓶ないらしく、むしろ西日本の地域よりも存在感が薄い。多く目に付くのは新潟と長野のお酒で、この売場だけ見たら、宮城県が2017年の全国新酒鑑評会にて出品23製造場のうち21製造場が入賞、しかもその20製造場が金賞を受賞という、金賞入賞率91%という驚異の日本酒品質県だということに気づきようがありません。(参考:福島45銘柄中金賞22、新潟70銘柄中14、長野59銘柄中10)

(ほんとうは)圧倒的ではないか、我が軍は!

しかし、しょせんはそうした事実を単なる情報発信ではなく実物として飲めるようなインフラ整備が行われなければ、実際に購買には結びつきようがありません。この一合瓶コーナーには外国人と女性ばかりがおり、最初からオッサン酒豪はアウト・オブ・眼中になっていて、なるほど、こうしたところからビギナー教育が始まっているのだ、と痛感するのでした。

今からでも遅くはないから、宮城の酒蔵の皆様には、一人の宮城県民の人生を助けると思って、是非とも本気モードで一合瓶の企画を推し進めて頂きたいと、カサマは心の底より意見具申するのであります。

面積1,455haの鳥獣保護区を抱え、国内最大級の渡り鳥越冬地にしてラムサール条約の登録地「伊豆沼・内沼」が存在する宮城県。なにげにコレは凄いことなのですが、実は仙台市内にも小さな越冬地はいくつかあります。

センダイジンどもは子供の頃から、冬になると近くの沼にマガンや白鳥がいるのを目撃しているため、それが都会人にとっては極めて貴重な体験であることに、大人になってもなかなか気づかないものです。

「あ、白鳥がビル街を飛んでいるなぁ」ぐらいな。

3月22日 12:55 ·

【回帰】
「都市の中の越冬地」という、ある種仙台独特の風景。
案外知られていないのですが、宮城県は国内最大級の渡り鳥の越冬地であり、県都仙台市内にもいくつか越冬地があります。

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広瀬川の河原町河川敷もその一つ。


仙台の都心から地下鉄3駅目(6分)の初乗り料金範囲の河原町駅から、徒歩数分。
「都心の越冬地」。
しかし、案外センダイジンは当たり前すぎて、その貴重さに気づいていない模様。
三連休でも観に来る者はごく僅か。

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ここ二週間ほど、いよいよ北方への回帰が始まっており、朝焼けの中、ビル群上空をいくつもの編隊を組んでガーガー鳴きながら飛んでいる様子は、あまりにも現実離れした不思議な景色。

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いずれ望遠レンズで「押さえ」なければ。。

(補足)

東日本大震災が発生した2011年3月11日。

あらゆる交通機関が麻痺し、仕方なく徒歩で河原町まで歩いていると、冷たい雪が降ってきます。その雪の中、広瀬川河畔で越冬中の鳥たちが飛び立ち、がーがー鳴きながら編隊を組んで北に向かって征くではありませんか。

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風もなく音もなく。

太陽光は雪雲で遮られ、ただしんしんと降る雪。まるでフォトショップで彩度をモノクロ寸前まで落としたような景色。ビル街を飛ぶ大勢の渡り鳥が北行回帰する様子は幻想的というか、何かこの世の終わりのような恐ろしい風景であったのを記憶しております。鳥にも見捨てられたかッ!

「仙台、終わった・・・」

あの空を見た時の素直な感想がそれでした。

カラスが空を支配するTOKYOと違い、空を見上げると様々な鳥たちが飛んでいるのは、仙台・宮城の独特の風景。その多様な空に気づかない普段のセンダイジン達は、下を向いて地面を見るだけでなく、たまに上を向いて大空と世界の多様性に気づき、それを思考するチャンスを積極的に活用するべきなんでしょうなぁ。

東日本大震災前、仙台市の沿岸の貞山堀沿いにはかつて仙台亘理自転車道という長大な自転車道があったですよ。

岩切から入って海岸線沿いの松林をひたすら走り、途中乗馬クラブやら閖上のサイクルセンターまで。さすがにそこから亘理まで行くと帰れないので、閖上から名取川&広瀬川を遡上して、当時住んでいた北山まで、およそ50km。松林の中はほとんど走る者もおらず、海の音と自転車が風を切る音だけの、都市の空間として不思議な場所。カサマは学生時代から社会人に至るまで、体力錬成の一端で何度も走っていたものです。

が、2011年、例のアレで沿岸部の自転車道は完全崩壊!

5年間ほとんど復旧しなかったのですが、このたび仙台市内の沿岸部の約半分が復活。そこで見たのは、政令指定都市のメトロポリスの沿岸部とは思えない、美しくも異常な光景が広がっていたのでした。

場所: 荒浜海岸 2017年3月12日 13:32

【完全に一致】

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ああ、どこかで見たことのある風景だと思ったら、ナウシカの「清浄の地」だ。

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昨日は仕事もせずに、ひたすら自転車で閖上から荒浜まで。
仙台市の沿岸部は居住が禁じられ、あたかも禁忌の地のごとく、人の姿が殆どない「清浄の地」。

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植物と動物の再生と、奥には巨大な光り輝く防潮堤20世紀の人類が建造した自転車道の橋の跡が、辛うじて残る、現実離れした世界の果ての風景。

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だがここも明らかに仙台の地。
この「重要な日付」でも、人っ子ひとりおらず。風の音しかなく、この空間に人類は自分しか存在しないような、寂寥感
もっと地元の人間は、この景色を目に焼き付けておくべきだと思うんですね。

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この空間に身を置き、感じることで、この地の、或いは人類の行く末を考える、貴重なひと時になります。

<補足>

驚くべきコトに、かつてはこの貞山堀沿いはかなり巨大な松林の中だったので、こんなに視界は開けておらず、むしろ森の中を走っているような感じだったんですね。それが津波でご覧の通り一掃されてしまいました。

一方、かつてのサイクリング道は一部修復が続いており、開けた視界を西側に転じると、以前は絶対見えなかった都心のビル群などが見えたりします。

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かつての松林再生のための柵が、永遠と続く先に都市群が見えるこの風景も異様

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復元されつつある南北を貫くサイクリングロードの上から、東と右では全く違う風景が広がります。

元々仙台の沿岸部は、荒浜地区を除くと集落が皆無で、一種の「禁忌の地」のように都市から隔離されていたんですね。日本の大都市が海に面して発展しているのとは、明らかに違う。何かこう、「境界線上にいる」感がものすごく感じられるスポット。

自動車も入れないし、近くに公共交通機関もないため徒歩でも行きにくい。自転車乗りのみが体感できる境界世界。ココを走っていると、「ああ自分はリアル風の谷のナウシカの世界に来てしまったんだ」と嘆息しながらも、一方で震災をきっかけに拡がった自分のシゴトを考え、「うだつのあがらねぇ平民出にやっと巡って来た幸運か、それとも破滅の罠か。」(クロトワ)とリアルに考える自分に驚きあきれる、いとおかし候

さくら野百貨店陥落ッ!

2月も最後の月曜日の朝から、駅前は突然の店舗閉鎖でちょっとした騒ぎに。すぐに帝国データバンクの倒産情報が流れます。

最近エスパル東館やパルコ2などの出店が相次ぎ、仙台の商業の中心が駅前に移った感のある昨今。その中でさくら野は非常に苦戦している様子は見て取れましたが、見なさすがに「まさか!」と思った・・・ということもなく、「やはり・・・」という感想を口々に語り合う時点で、多くのセンダイ人たちは、さくら野の行く末を予想していたのでした。

次はこの駅前一等地に何ができるのか?楽しみだなぁ。

2月27日 12:38 · 仙台市

【Road To Rebirth】
ダックビブレ、いや、古い仙台人には丸光デパートと言った方がピンと来るか。
仙台駅前さくら野、陥落であります。
一部テナントフロア以外、閉鎖。

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次は何が入るのかしら?

たまたま本日、産業振興事業団出勤日だったので、内部ではちょっとした騒ぎに。

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すでに「震災バブル崩壊後の世界」にいると、改めて体感せり。

統計情報や、街中で大量発生中の「テナント募集」の張り紙、カサマへの相談案件、そして今日の「さくら野陥落」など、あらゆる客観情報も体感情報も急下降。

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震災直後よりよっぽど悪い。

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こんな不安感は、生まれて初めてですなぁ。
ポストアポカリプスも間もない・・・。
God save Sendai.

<補足>

かつての地方を代表する百貨店の突然の破綻と言えば、思い浮かぶのは浜松の松菱デパート

wiki「松菱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8F%B1

その突然の陥落やその遠因となった積立金優待制度「松菱友の会」の顛末など、非常に興味深いのですが、それより驚くべきことは、都市圏人口100万人を超える大都市にもかかわらず、2001年の破綻以来、駅前商業用地の一等地の破綻後の建物がその後15年近くにわたって放置され、最近ようやく解体されたと思ったら、再開発も遅れ、完成が来年2018年と、実に20年近い歳月がかかったという事実です。市民は皆、「松菱の所は一等地だから、すぐ別のテナントが入るか、再開発されるだろう」と漠然と思っていたら、いつの間にか気づかぬうちに15年以上たっていらそうな。

「いや、浜松の都市圏人口はセンダイの半分だから」と安心してはいられません。

さくら野百貨店の向かい側にある旧仙台ホテル跡に、本格的再開発までの5年間の暫定商業施設の位置づけの「EDEN (エデン)」が開業したのは、2011年7月。

今は2017年ですぜ。

エンドーチェーンやエンタツパーキングがある仙台駅前の「中央南地区」の再開発が、1999年に中央南地区まちづくり協議会ができて以来既に18年たっている前科を忘れたか、センダイジン。1999年って、アンゴルモアの大王が襲って人類滅亡した20世紀の話です。

そんな他都市のケースや前科を考えると、この案件、意外に長引くぞ?と思ってしまい、結局、丸光デパートであるところのさくら野百貨店が陥落した理由など、もはやどうでも良くなってしまい、何もナゾ解きすることなく今回のブログを終え、年度末の報告書作成業務に戻る、ある日のカサマなのでした。

仙台北西部の大住宅街「中山」地区の歴史は意外と浅く、昭和40年代から造成が始まった、いわゆる「ニュータウン」。その中央を貫く道路沿いには多数の商店や飲食店がひしめいていたものですが、今や街自体が高齢化。そうした商業施設は歯抜けになってしまっているのでした。

そんな中、ちょっと摩訶不思議な名前の福祉施設が。

1月18日

【店舗襲名】
本日午前は青葉区中山地区にて打ち合わせ。
中山商店街の「中腹」に、「もうもう亭」という福祉関連施設の分室・センターあり。

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福祉拠点がなぜ「もうもう亭」か?

外観見てピンときた方いるかもしれませんが、もともとここは焼肉屋

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地域住民は場所の説明の時、「中山2丁目のバス停」ではなく「もうもう亭の所を右に曲がって」みたいに説明のしていたんですね。

10年ほど前、新たにここに分室・拠点を設ける際、どうやってこの中山地域になるべく早く受け入れてもらえるか?と考えた時、この名を受け継いだ

これはこれでうまいやり方だなと。

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この団地の40年の歴史の中で、前身(?)の「焼肉もうもう亭」時代から半分以上の時間が「もうもう亭」。

街のランドマーク

案外、太古からこういう事業承継や業態転換とまったく関係のない、屋号の「襲名」はありそうですねぇ。

<補足>

カサマは以前、東北福祉大学系列の会社、いわゆる「せんだんグループ」の企業に勤めていたですよ。その流れで、この「もうもう亭」の開設直後に写真素材の収集(当時デジタル一眼レフを持っているのは希少だった)のために中に入り、そこでスタッフにこの「もうもう亭」の歴史を聞いた次第。他にも中山には現に現地人は、10年前につぶれた居酒屋のあった場所を、今でも「モトヨウロウ(元養老乃瀧)」と呼んでいたり、25年前に撤退した藤崎スーパーのあった場所を、未だに「フジサキのあったところ」と言い、「花祭壇があるところ」とは呼ばないご老体がおると、花祭壇の経営者の方が言っておられました。

ところでカサマの両親は西会津町群岡地区という所出身で、両親の実家は「ジンザエム」「オガイム」という屋号があり、現在でも一般的な名字ではなく、屋号が日常的に使われ続けています。町内では「オガイムの所の孫のタケルです」で、概ね通じる。

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「ジンザイム」はおそらく「仁左衛門(じんざえもん)」のなまったもので、「オガイム」も「夫ヶ右衛門(おがえもん)」あたりで、おそらくある時の先祖の名前が屋号化したものと思われます。代々その家主の名前は変わっているはずで、名字ではなくその町の中のその場所が「ジンザイム」「オガイム」。なお、近くには「オヤガッツァマ」という家もあり、それはおそらく「御館様」あるいは「親方様」でありましょう。

たった40年の歴史の中山ですが、これがあと20年もたつと、「もうもう亭」は「モウモウテイ」になり、ついには「屋号」となって、この街に定着するかもしれない。

20世紀後半に生まれた「ニュータウン」の一部の機能も、その歴史が半世紀を迎えるに当たり、結局は「屋号」という、日本に連綿と続く太古の文脈に組み込まれていく姿を目撃しつつあり、実に不思議な気持ちになりながら、現代の住宅地ではあり得ない坂道必死に自転車で登る、ある日のカサマなのでした。

毎年2万人ぐらいが立ち去り、ほぼ同数が新たに住み始める、人の入れ替わりが激しい仙台。しかし、幼少より住んでいるセンダイ原住民ニューカマーセンダイジンを分ける場があります。

それが「どんと祭」

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毎年1月15日前後になると正月飾りを処分するのに頭を悩まし、あちこち右往左往してとりあえず神社で燃やすセンダイ原住民達。

そのため彼ら(我ら)が他地域に移住しようものなら、「あれ?どんと祭がないけど、正月飾りどうやって処分するの?」と結構本気で悩み、そこで初めてどんと祭やどんど焼きなどの「左義長」で、裸になって正月飾りを燃やすのはごく特定の限られた文化だと気づくのでした。

一方、ニューカマーセンダイジンたちにとっては、そもそも「どんと祭」がそこまで特別なものだとは想像もつかず、「ああ、どんど焼きの一種?なぜみんなそこまで必死にこんな寒いときに大崎八幡宮行くんだ・・・、しかも一部は裸で。」はまだしも「あれ?子供達の書き初めの紙を燃やして、その火で餅を焼いて食べないの?」なる、センダイ原住民にとっては理解不能のナゾの呪術を口走る有様。

こうしてセンダイ原住民達特有の、例え大雪でも氷点下5度でもとりあえず大崎八幡宮や東照宮に正月飾りを燃やしに行く苦行は、徐々に廃れて行きつつあるのでした。

2017年1月15日

【Don't sigh】
大崎八幡宮のどんと祭に潜入するなど。
初購入のデジタル一眼レフ Nikon D70s の夜間撮影テストを兼ねて行った以来(2006年の正月)だから、11年ぶりか。。。

実に幻想的な祭ですが、現地で「ダイオキシンが怖いよねぇ」との声聞かれ、少々興ざめの感あり。

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確か11年前にも、ダイオキシン云々のセリフを同じ場所で聞いた記憶があり、デジャヴ感甚だし。
というか、21世紀ももう15年ぐらい経とうというのに、まだ「ダイオキシンこわい」を聞く状況が変わらぬとは。。。

一度ネガティヴ情報が浸透してしまうと、いくら「エビデンス的には怪しい」と言っても、それを払拭するのは容易ではありませんなぁ。。

もはや化学物質云々ではなくて、これは一種の「穢れ」みたいな感覚かと思い、ヤレヤレと一瞬ため息をついた後、
「はっ、これぞまさに、どんとさい、『Don't sigh』か!」
と気づき、一人で納得して「くっくっく・・・」とかニヤつきながらその場を立ち去る2017年のどんと祭。

2017年1月15日

【どんど焼きのナゾ】

旧仙台藩領の「どんと祭」。
とにかくヒト、ヒト、ヒト。
よくぞマイナス5度の中集まったり、12万人のヒト

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いわゆる全国かしこの小正月に行われている左義長の一種。広く首都圏では「どんと焼き」と呼ばれ、裸参りだとかそういう勇壮なイメージとは全く違い、郊外の神社中心で、場所によっては子供の行事扱いということは、東京に住んだとき初めて知った次第。

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しかも、どんと焼きが一種の野焼きであり、環境的になかなか大々的にやれないこともあって、23区内ではあまり街中で盛り上がってはいない感。

この時期になると、宮城県人は「ああ、正月飾り燃やすところ探さないと・・・」と言って、右往左往しながら神社とか探して押し寄せるのとちょっと違う雰囲気。
でも、氷点下5度の酷寒の夜に、ものすごい数の出店が出てきて12万人(大崎八幡宮)とか8万人(東照宮)とか一夜に集まってくるのも、よく考えると不思議な行事ですね。

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一方、笠間が中学高校時代は、大崎八幡宮だけでも参拝者はこの倍の20万人ぐらいいたと言うから、この20年で半減
大都市でこういう祭りが残っているのは良いこととは思いますが、案外、きちんと伝統を護る努力をしないと、かつて仙台最大の祭りだった江戸期の「仙台祭」同様、案外あっさりと途絶えてしまうかもしれませんなぁ。

<補足>

かつてどんと祭は、それこそカサマが小学生ぐらいの時までは、大崎八幡宮の前の国道48号線が全面通行止めになり、人口60万人ぐらいの街で20万人以上が押し寄せる、この地では仙台七夕に次ぐ大きな祭りであったとか。ところが今や国道48号線も部分的交通規制に縮小され、往時の半数10万人前後が参拝する規模となり、人口100万人のメトロポリスの中の祭りとしては、相対的に小さな「イベント」になってしまったようです。

それでもセンダイ原住民であるところのカサマ的には、このどんと祭が永遠に続くものという意識が何となくありました。

ところが今年行ってみて少し違和感があった。

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天候に比較的恵まれていたにもかかわらず、11年前の撮影テストでやってきたときより、ずいぶん正月飾り焼却所の山の高さが小さく、夜も21時を過ぎているのに人混みで出店でものが買えなかった様な、あの喧噪とあの独特の高揚感が失われているように思える。

そのとき、「あれ?この祭りも、もしかして衰退している?」と、何かの兆候に気づき、はっとなった次第。

自分たちの親の世代、すなわち団塊の世代前後は、ほとんど仙台移住組であるニューカマーセンダイジン。この40年で人口は倍増し、「青葉祭り」や「光のページェント、「ジャズフェス」など、新たな仙台の祭りを開発してきた偉大なる世代。

1985年 5月 仙台・青葉祭り復活
1986年 12月 バブル景気開始
      同月 光のページェント開始
1987年 1月 NHK大河ドラマ「独眼竜正宗」放映
     5月 仙台すずめ踊り復活
1988年 3月 東北電力サッカー部(後のブランメル仙台、ベガルタ仙台)創設
1989年 4月 仙台市政令指定都市移行
1990年 9月 ジャズフェス開始
1991年 1月 湾岸戦争「砂の嵐作戦」
     2月 バブル景気終了
     9月 仙台大観音(高さ100m)竣工

1997年 10月 YOSAKOI踊り開始(後の「みちのく「YOSAKOI」祭り」)

しかし一方で、必ずしも「どんと祭」のような仙台特有の慣習を護るということを、意識的にはしてこなかったように思います。そのツケがもしかして、いま徐々に現れているのではないか?

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今や四十路を目の前にし、ニューカマーセンダイジンの子供達であるセンダイ原住民のロストジェネレーションであるところのカサマ達の世代は、もしかしてこの街の数百年の古きと数十年の新しきの両方を継承し護るという、実に難しい課題を与えられ、ついにそれを主体的に、中核的に担わなければならない時が来たのかもしれない。

そんなことを寒空の中、今年最初のリア充観察をしながら考えた2017年のどんと祭。

案外知られていないのですが、宮城県は量産されるお茶の中では北限地域であります。

高校時代、ライバル校が仙台市内の元茶畑という住所にあったため、無条件に「お茶=野蛮」という偏った思考になってしまっているカサマですが、この伊達政宗の町割りから端を発する「北限のお茶」は、明治の頃のグローバル戦略敗北の歴史をその身に包含しつつ、想像以上の奥深いマーケティング戦略が構築されつつあるのでした。

12月1日

【和紅茶 kitaha デビュー】

石巻の北限のお茶「桃生茶」を使った紅茶「kitaha」が、月曜日にデビュー。

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そのお披露目の品評会を、先週オープンした石巻ASATTEにて挙行致すなど。

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事業団チームも準備お手伝い。

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最近急激に増えつつある「和紅茶」というジャンル。
もともと明治期に、輸出品開発の一環として国策で生まれたものの、品質の問題から振るわず、ほぼ消滅

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あれから100年。
最新の科学や蓄積されたノウハウを元に、生まれ変わって再登場。明治期とは違い、今や「Made in Japan」は品質の象徴
世界へ再挑戦というわけです。
今年のスーパーマーケット・トレードショーやFOODEXでは、台風の目の一つとなるでしょう。

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が、この「kitaha」。
そうした急速全世界展開とは一線を置き、マーケティング戦略の観点からあえて「地元石巻の人にまず普及」「次に仙台」「そして世界都市TOKYOへ」という、時間を掛けて手の込んだ戦略を採用しております。

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「地産『他』消」型が求められる昨今の6次産業化系の業界ですが、これは新たな地域の食文化の一翼を担う資源にするべきで、当面の戦略は「地産地消型」だろうと。

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地域で消費されていないものを世界に出しても、「ニセモノの地域産品」になってしまい、競争力に欠ける。
別にマーケティングは地産地消の敵ではないよ?(誰かに対するメッセージ)

<補足>

「地産地消」という言葉は一時期非常に多方面で聞いた言葉でしたが、ある日カサマはその地産地消を進めようというある農産物の生産者産の方に、マーケティングは地産地消を破壊する概念だという趣旨の説教を受けたことがあったですよ。

マーケティングは文字通り、マーケットに商品を届けるまでのあらゆるプロセスを整理するお仕事に過ぎませんから、破壊もへったくれもなく、そうした背景から「地産地消オプション」はかなり限定的な戦略でしか使われないわけです。

ところが、地産地消を叫ぶ方の多くが、「東京で売りたい」とか「パリで売りたい」とか、なぜか他所で売ることをマーケッターに本音では伝える傾向があり、しかもそれは地元の人たちが実は大して食べていない場合もあって、要するに「そういう宣伝文句」という程度キャッチコピー的概念理解であったりして、当方としては少々残念な思いをするわけです。

一方、マーケッターが「地産地消」という戦略オプションを選択すると言うときは、地域の食文化を紐解く、或いは根付かせるという方向性ですから、半端ではない覚悟が必要です。

それは1年とか2年とかではなく、5年或いは10年を覚悟する壮大で地道な取り組みが予想されるわけで、だからこそ、どんなプロセスで地域に根付かせるか、その地域の文化の一部となった真の「地域産品」を、その後どのようなプロセスで「他所」で消費していただくようにするか、精密なシミュレーションと内部での共有理解が必要でして。

その点、そもそもお茶自身が大英帝国の植民地支配から旧幕臣の雇用対策、そして明治政府の輸出商品に至るまで、戦略商品であったという事実がありながらも、今回このkitahaのプロジェクトに関わる皆さんが、非常にじっくりと正攻法で地元への浸透戦術を選択していただいたことは、実に注目すべきことで、感無量なのでした。

ロハスでオーガニックなクラスタの皆様からのナゾのマーケティングへの敵視を乗り越え、この北限の和紅茶のマーケティングの成果を見守り、またそれをサポートしていきたい次第です。

この記事を書いた人

笠間 建

笠間建 (コミューナ・トランスレーション・デザイン有限責任事業組合)

事業連携担当。
プロジェクトエンジニアを僭称(?)中。PEは本来は工場オペレーション用語ですが、調査分析・事業企画・計画・実行など、プロジェクト全般を広義に「エンジニアリング」してきたキャリアパスで、他に良い表現が見つからないので。2008年9月から2010年8月まで、社会人学生として東京で貧乏大学院生生活を送っていましたが、2010年9月に無事修了して仙台に戻ってきました。
趣味は自転車、旅行、写真。

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