カサマは若干、商業復興支援施設である「東北ろっけんパーク」プロジェクトに関わっていた(る)のですが、様々な思惑とドラマが生まれていたこのプロジェクト、はて10年後、この取り組みはどのように歴史の評価を下されるだろうか?と、設立当初から考えておりました。そんな中、我らがかほぴょん新報が上手いこと歴史を拾ってくれたので、その感想を書いています。
June 25
22日の河北新報夕刊のトップページに載った、一見冷静で客観的な記事ながら、慎重に読むと非常に驚くべき内容の記事。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1096/20130622_01.htm
<河北新報 一部転載>
新しいまちづくり応援/東北ろっけんパークスタッフ・斎藤由布子さん
仙台市中心部のアーケード街にある情報発信拠点「東北ろっけんパーク」は、被災地で作られている商品や復興支援グッズを多数扱っている。スタッフの斎藤由布子さん(44)=仙台市宮城野区=は商品発掘、仕入れ、販売を担当するチームのリーダーだ。岩手、宮城、福島各県の復興商店街などに直接赴き、販路やブランド化の相談にも乗る。販売や情報発信を通し、沿岸部の新しいまちづくりを応援したいという。(中略)
―延べ600点扱う―
缶詰や乾燥ワカメなどの水産加工食品、塩害で伐採された木々で作った日用品、大漁旗を再利用した帽子やストラップ、アクリルたわし。昨年5月のオープン以来、「延べ107の個人や団体、企業が出品し、扱った商品は600点ほどになっています」と斎藤さん 。売り上げは全額、出品者に渡る仕組みだ。(後略)
昨年度一緒に仕事させていただき、その執念と言いますか、真摯な復興への取り組みに、とても尊敬しておりました。
記事の中で「のべ600点」の復興関連商品を扱うとか、さらっと書かれていますが、これは凄いことです。正直、最初「毎週末に復興市(「いいもんパーク」)を開きます」というスキームを聞いたとき耳を疑いました。曲がりなりにも催事を運営のお手伝いをしたことがある身としては、まず不可能と思っておりました。
しかし、彼らはそれを成し遂げ、今や被災地の商業復興にとって「頼れる存在」となった。
彼らは自らの休日を返上してでも、決して交通の便がいいともいえない、広大な東北大陸の沿岸部の産品の発掘に努めていました。
この記事が載った日も、釜石方面などをローラーしていた模様。
WBS(注:Waseda Business School)時代に「見える化」で有名なローランド・ベルガーの遠藤功先生の授業を受けていたとき、戦略・戦術部分が稚拙でも、良くも悪くも日本特有の「現場力」で何とかしてしまう話が出ていましたが、自分の目の前でそれが起こったことに感服したと同時に、普段戦術担当の自分としては、非常に身の引き締まる思いがしたものです。
彼らの真のご苦労とその活躍は、誰も公式には記録せず、震災復興の歴史の表に出ることは中々ないかと思われました。
しかし、新聞のトップ記事にきちんと記録された。
この河北新報の記事を書いた記者に、感謝です。
<追記&解説>
よくカサマは戦史マニアの友人とかと物事を例える際に、「ああ、こりゃあインパール作戦の宮崎繁三郎少将の気分だよ」「ありゃあ、ガダルカナル時の参謀本部みたいだ」「いよいよ本土決戦。つまりそれはオリンピック作戦ですな?」とか、いちいち太平洋戦史で例えるわけですが、今も昔も日本人に共通するのは異常な現場力。
一方、戦略・戦術レベルはなかなか現場の情報をくみ取るのが難しいのが常。
戦略・戦術担当者がついつい抜け落ちる最たる要素が「距離」。
移動時間、交通費、移動に伴う疲労・・・。
21世紀になっても、これだけ交通機関が発達した時代でも、「距離」の制約から我々は逃れられません。
まして東北大陸で復興の仕事をするとなれば。
(我れらが「はやぶさ」を以てしても限界が・・・(写真はいずれ貴重になるE5系とE3系。ドッキングは男のロマンだ。))
被災地域の広大さというのは、当のとうほぐ人ですら感覚がない場合が多く(例えば我々宮城県民は岩手県を「ちょっと大きい」と漠然と認識しているが、実は2倍以上岩手県の方が大きい)、様々な復興関連計画は、その距離制約を無視したものになりがち。
まして中央のヒトに伝えるのは至難の業で、「岩手・宮城・福島・茨城の被災4県の面積(42,440km^2)と九州島全域の面積(42,190km^2)は同じぐらいの広大で、東京から岡山(直線距離約550km)に行くぐらいの距離が深刻に被災しましたよ」、と言っても、やはりピンとこないようで す。
被災地中から600品目も勝手に仙台に集まることはありえないわけで、誰かがこの広大な地域を足で必死に「発掘」し、成果を出したと推測できる、というか私は見ていたわけです。
この記事を見て、日本の歴史上最悪の軍事作戦でもあるインパール作戦の、有名な感想を思い出し、一人事務所で落涙するのでした。
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」(南方軍総司令部参謀 吉川正治 Wikipediaより転載)
普段戦術担当者のカサマが昔から、いちいち距離を別の場所を使って例えるのは、そんなダメなエリート先人たちの戦訓を活かそうという細かい努力なのです。
数十年後の子孫に恥ずかしくないよう、すなわち「当時のとうほぐ人たちは意外にも理詰めで科学的に、静かな闘志で、彼ららしく復興を成し遂げた」と評価されたいものです。