河原町のマンション「王の丘」に住むカサマ。舟丁にある老舗駄菓子屋「石橋屋」さんは、普段はそれほど人がいるわけではありませんが、桜の季節だけまるで京都の観光地のように半径数十mの範囲だけ大いに賑わいます。しかしその景色も近々大いに変わるかもしれません。
4月8日 仙台
【石橋屋】
日曜出勤前に、自宅近くの石橋屋に寄るなど。
仙台は桜のスポットが少ないせいか、狭い路地に多くの人が。
中で駄菓子を昼食(!)として買ったら、おまけが。
写真だけ見ると島根の津和野や京都の西陣あたりに見えなくもないですが、まるで映画のセットのごとく、まさにこの一角だけという。
将来的にはこの目の前を宮沢根白石線という都市計画道路が建設中で、南鍛冶町工区は平成32年に完成予定。
こののどかな風景も、間も無く見られなくなりますね。
ちなみに宮沢根白石線は、286号線の宮沢橋交差点から河原町、荒町跨線橋(建設中)を経て南光台、バイパス、さらには運転免許センターまで仙台の南北を貫く大幹線の計画。
(補足)
根白石を通らない宮沢根白石線。
本文にも書いたとおり、東二番町通り(旧4号線)などに匹敵する、仙台の南北を貫く大幹線になる予定です。
本文中では「南鍛冶町工区」とお伝えしていましたが、実際には石橋屋の目の前は「舟丁工区」と言われており、完成年度は予告されておりませんでした。ただ、すでに周辺では回覧板等での周知も図られ、市のホームページでは「宮沢根白石線(舟丁工区)七郷堀函渠築造工事」の制限付き一般競争入札の予告も今年度(2018年4月)出ておりますので、そう遠くない時期に着工になるかもしれません。
それはともかく、カサマはかつて中山に住んでいた際、北環状線(八乙女折立線)がまだ現在の中ジャス(イオン中山店)までしか開通していない盲腸線だった時代、全く車が通っておらず除雪もされていなかったため、北環状線でソリ遊びやスキー遊びをしたことがあります。その後、折立まで開通したり、西道路がトンネル一本の対面通行だったものがもう一つトンネルが開通して完成4車線になったりと、都市計画道路が急速に整備された80年代の、街が道路によって激変する様子をよく覚えています。
ところが90年代になると、バブル崩壊のあおりや人口増加予想との齟齬により、ほとんど新しい大きな道路の開通がなくなり、20年間ぐらい仙台の景色が変わらない状況が続きました。(資料は「仙台市橋梁長寿命化修繕計画 (平成29 年度~平成33 年度)」より)
おそらく、今の20代30代の人たち(1980年代以降生まれ)は、仙台の街の様子は変化が乏しい、ずっと同じ景色の街だと認識しているかもしれません。
そんな中、震災の年である平成23年1月に「都市計画道路網の見直しによる『新たな幹線道路網』 及び今後の都市計画の変更手続きについて」により、かなり選択と集中を行う方針に戦略転換。その結果、地下鉄東西線の建設連動する形で、街を激変するような重要幹線の着工と完成が猛烈な勢いで進捗。自分が生きている間には完成せず、幻の路線になるかと思われた大幹線の建造が2010年代になって急速に進むことになりました。夢想だと思ってた宮沢根白石線すら、完成が見えてきた。
そこでふと思ったのは、経済が減退し、すでに街の人口配置が確定してしまっている現在ではなく、20年ぐらい前にこの「選択と集中」をやっていたら、という疑問。
というか、20年遅すぎた?
結局、20年という1世代以上にわたる「総花的政策の反省」の期間が、果たして「石橋をたたいて渡る」という街作りに必要な慎重な精神だったと、未来のセンダイジンたちに評価されるのか?あるいは他都市の未達となった戦災復興計画のように「ご先祖様・諸先輩方がしくじった」と評価されるのか?
なるほど、歴史に裁かれるというのはこういうことかと、過去のこの国の国力絶頂期のおもいでぽろぽろと、老舗の駄菓子屋の美しい風景の前で建造が進む巨大道路の未来を夢想しつつ、目の前の桜を愛でながら嘆息するのでした。