震災も5年が過ぎ、いよいよ具体的に動き出した各地の「震災記念館」。そもそも震災遺構をどのように残していくか?という問題は、震災直後から割と現場では課題となっており、それから5年がたっても結論が出ない難しい問題。
その間、行政などは東日本大震災や中越地震などの「復興記念館」の視察や調査などを地味に行っており、その一部はネットなどで公表されております。しかし、その評議をする偉い人たちのメンバー構成を見ると、大学教員やキュレーターなどが名を連ねるものの、経営の専門家がほとんどいない、いわゆる有識者会議になっている場合が多く見受けられます。
もちろん、住民参画なども極めて重要なコンセプトでありますが、ある時点とから結局は集客が最大の課題になるという、実に誰もが予想して誰もがやりたがらない課題に、結局最初から最後まで各施設は逃れらない現実があるのでした。
10月8日 · 兵庫県兵庫県 淡路市 ·場所: 野島断層保存館
【復興記念館】
9月末の西征にて淡路島に上陸の際、アップした写真の影響で「ガイシャに乗って世界平和大観音を見に行った」と多くの人々に誤解されてしまったようである。
うむ、それは概ね正しいのである。
とはいえ、一応、「北淡 震災記念公園」にも行ってきたので、レポートしますぞ。
本施設は阪神大震災で出現した「野島断層」の保存部分がコアコンテンツで、何となく仙台で言うところの「地底の森ミュージアム」に似てなくもなし。
重要なのが、本施設が「被災住宅」
「神戸の壁」
「地震体験施設」
「風力発電所」
「物産館」、
そして「リア充ハートの謎施設」と、少しずつ施設的に拡張し、またコンセプト的にも拡張してきていたという事実。
災害復興系の記念館は、概ね「防災教育」「科学教育(ジオパーク系含む)」「記憶の伝承(地域史を絡めたもの含む)」のコンセプトでキュレーションされているようですが、本施設はこれらのコンセプトに少しずつ情報が足され、加えて本施設は巨大な風力発電機に代表される「エコ」や、縄文史との連携など、あらたなコンセプトの付加が続けられている。
今次震災にて、これより様々な「東日本大震災復興記念館」的なものが各地にできるとおもいますが、こうした「継続的なメンテナンスと投資」も是非とも想定して欲しいところ。
そうした努力なしには、本施設のように小規模ながら、設立から13年で入館者800万人を超える淡路島有数の観光施設にはなり得ない、そう思うわけです。
結論:リア充ハートの謎施設は、むしろ本施設の最重要仕上げコンテンツ
<補足>
そうか、やはり施設継続には愛が必要なのか!
まあそれはどうでも良いのです(え?)が、今次震災の他の災害との大きな違いは、当時の携帯電話カメラ(2011年当時はスマホ普及前であることに注意)などの普及により、驚くほど多くの「動画映像」や「写真」が被災者自らの手で残されており、その後震災をきっかけとしたSNSの普及により映像・画像・文章がほとんど無限に近くインターネット上にアーカイブされており、おそらく人類史上初めて被災者全員が記録者になりえた災害と言うこと。
様々な「展示」で、「防災教育」「科学教育」「記憶の伝承」を狙う過去の施設達。
しかし、案外そうした庶民が残した膨大な動画、写真、文章の収集を主眼とし、その展示は淡々とした方が圧倒的なリアリティになるのではないか、と思うのです。
というのも、まさに半世紀以上早く「記憶の伝承」方法に悩んだ沖縄戦跡を巡ると、最も印象的で強烈に記憶に残ったのは平和の礎がある「沖縄県平和記念資料館」の噂の「第4常設展示室」だったからです。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/annai/tenji_sisetu/josetuten/4/index.html
(引用)
住民の見た沖縄戦『証言』
沖縄戦の実相を語るとき、物的資料になるものは非常に少ない。(中略)忌(い)まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものである。
(引用終わり)
おどろおどろしい模型でも記録映画でもなく、ただ単に庶民の手記が読めるようになっている、ただそれだけ。
物産館など様々な機能を付加していくのも一つの今風の方向性かもしれませんが、だからこそ、足下の膨大な住民による記録や証言を収集・補完・展示という、博物館的手法に原点回帰する方向性もあると、不消カサマは思うわけです。
その意味で、案外今回の東日本大震災の復興記念館は、他の災害記念館を参考にするのではなく、すでに半世紀以上その方針を模索してきた戦災復興記念館や国内外の戦争博物館・記念館を参考にした方が良いのではないか?
そうカサマは意見具申するで有ります。