大震災の被災から大分時も過ぎ、少し心に余裕ができたせいか時々外食に出る。先日、自宅の前の居酒屋に久しぶりに顔をだした。昔から知っている店だが、板前さんが代わったと聞いていたのでどんなものを出してくれるのかとの期待もあった。先客が一人いたが好きな「日高見」を飲みながらたわいない話をする。「親方は以前はどこの店にいたの。」「私が長く務めたのは三太郎ですね。」との返事。しばらくして板前さんと旧知の客が「私は秋田の生まれなんですよ。戊辰戦争の頃は秋田は裏切り者ですからね。」「えっ、そうかなー私はそうは思わないけど。」と話すと、「いやー、この前別の店で飲んでいたらそう言われたものですから。」とのこと。
確かに西軍(官軍かも知れないが、決して我々は賊軍ではない。)が江戸城を無血開城した後、東北に繰り出すおり、東北の藩は結束して西軍に対抗するために「奥州越列藩同盟」を結成した。その協議の中で早々と秋田の佐竹藩は西軍に与したことは間違いがない。しかしそれは諸藩の事情があり早々と自藩の行く末を表明したことであり、裏切りとは言えないだろうと思っている。
それを言うなら東北の雄:伊達藩は列藩同盟を強烈に纏め、会津藩とともに戦うべきではなかったか。私は江戸時代からの生粋の伊達藩の人間であり、榎本武揚が大鳥圭介、新撰組の土方歳三を引き連れ、石巻に寄港し、列藩同盟とともに戦おうと提案したとき、一緒に何故戦わなかったのか、今でも悔しい思いをしている。
歴史を語るとき、その場に居合わせない私たちは、史実家、小説家の書いた書物によりその流れを知ることになり、本当にそうだったのだろうかとの疑問を常に持ち続けている。
虎の威を借りた世良修三が、今風に言えば付き合いもない会社に来て役員を罵倒すれば、その部下は仇を取りたいと思うのは自然な流れであると思うし、司馬遼太郎が龍馬を書けば、時代の寵児として喝采を博す。でもそうだろうか。私が感じている龍馬像は、現代なら新進気鋭の経営者であり、武器商人にしか見えない。世良修三も坂本龍馬もその時代に会っていれば、すばらしい人物なのかも知れないが。
《大好きな土方歳三:5年ほど前組合の研修旅行で函館に行った際、一人抜けだしタクシーで土方終焉の地にある墓碑に手を合わせたことが懐かしく思い出される。》