3月11日午後2時45分頃、2時30分からの(財)宮城県建築住宅センターのセミナーに参加するため、遅刻だ!と急いでタクシーに乗り、丁度東2番町通りと広瀬通りの交差点で信号待ちをしている時だった。
「お客さん、地震ですよ」タクシーの運転手の声だった。車のラジオからは、「地震警報!大きな津波が襲来します。時間は15分後です。急いで高台に避難してください。」とのアナウンス。その内タクシーが大きく揺れ、目の前のタワービルが1mとも思われる傾きで揺れている。今までに経験したことのない、長い大きな揺れが5分以上も続いている。
揺れが納まりセミナー会場の建物に近づくと、中から大量の人並みが溢れその中からセンターの三部理事長が現れた。「松本さん。セミナーは中止、中の建物の壁も亀裂で危ない。」
それから30分ほどだろうか。東二番町通りの時間貸し駐車場のフェンスに寄りかかりぼんやり時をすごした。舗道上はビルから避難した人で溢れ、皆、何をしていいのか判らないほど混乱していた。
「会社に戻らなければ。社員はどうしている。」電気も切断され、交通機関はすべて停止状態だった。「歩いて帰らなければ。広瀬川に架かる橋は大丈夫なのだろうか。」「市の中心部ほど地盤が良くない長町はどうなったのだろう。」歩道にはぞろぞろと会社や家路に戻る人並みで長い列が続いている。
1時間以上もかけ、やっと長町に辿りついた。藩政時代からの古い商店街は、道路が陥没し所々の家屋が無惨な姿を晒していた。会社に着いたが誰もいなかった。入口に[佐久間さんを家まで送ってきます。]という張り紙が。マンションのエントランスへ入ると管理人が「松本さんの部屋は上階の水漏れで大変な事になっていますよ。」との報告。階段で8階に辿り着く。廊下側の壁が十字にクラックが入り、コンクリート内の鉄筋がむき出しになっていた。部屋に入ると、家具や電気製品全てが無惨にも倒れており、足の踏み場もない状態だった。天井までしっかりと取り付けた本棚が本棚ごと倒れていた。液晶テレビもあの重いテレビ台にワイヤーでしっかりと固定したのに、それさえもちぎれてテレビは床に倒れている。本棚から崩れた本は、天井からの漏水で何冊か判らないほど濡れてふくらんでいた。
部屋を片づける気にもならず、そのまま1階に下りた。電気もガスも無い生活。幸にも事務所は1階にあったため、水道には異常が無く、水もトイレの心配もなかったことは幸だった。
マンションの集会室には30名ほど布団や毛布を持込み避難しており、寝るスペースもない。
4日間、車で寝泊まりしたが、段々体調や精神がおかしくなり、5日目からは7人ほどに減った集会室で寝泊まりする。
津波で家毎流された被災者を思えば、不自由さも感じない1週間が過ぎた。【
【散乱した室内】 【14:48分で止まった時計】