ついに終了となった「東北ろっけんパーク」。
光陰矢の如し、とはまさにこのことで、その立ち上げ前夜を含め、その事業の最初から最後までかかわっていたという意味で、自分のビジネスパーソンのキャリアの中でも実はかなり長い方ということで、実に感無量であります。大量の数のプロジェクトをこなす地方のマーケッターも、意外に中長期のプロジェクトには関われないものです。
以前一度、このブログで東北ろっけんパークを取り上げたことがありました。
(FB転載)東北ろっけんパークのナゾ(2013年12月29日)
あれから2年4カ月。
その関係者たちの悲喜こもごもは、いずれ時が来た時に「震災復興始末記」としてカサマより発行するとして。
(Facebook転載)震災復興始末記のナゾ(2014年12月15日)
そのシャッターの閉まる瞬間、あたかも取材記者のように冷静に撮影のポジショニングをしているカサマが、実は何を考えながらシャッターを切っていたのか、Facebookに投稿しています。
2016年3月22日 22:25 · 仙台市
【東北ろっけんパークという伏線(長文)】
2012年5月よりおおよそ4年間続いた、東北ろっけんパーク事業が終了。今後は拠点を「ガスサロン」に移し、「まちくる仙台」という中心市街地活性化の事業に衣替えします。
すなわち、「仙台という都市が被災地の復興に貢献する」というコンセプトから、「復興」とはやや距離を置いた「仙台の街中活性」の事業へと、全く別次元のものになります。まさに4月より復興活動は第二段階へ移行の感あり。
果たしてそれは復興に近づいたからなのか?
一応かつてその「ローンチメンバー」であった立場としては、なかなか考えさせられます。
<実業家の学校>
本作戦は、その事業設計的には前提条件に実は当初より矛盾があり、事業後半は人材の流出もあいまって、その推進とパフォーマンス発揮は極めて困難なものでした。
一方、本作戦を巣立った人間の何人かが、実はその後(私も含め)創業しております。
今思うと立ち上げ時のメンバーは、震災がなければ集まらなかったであろう、精鋭ぞろいでした。あの場は人が育つのに必然の、常に実践の・・・いや過酷な実戦の場であったように思います。
その意味で、あの施設にいたみんなは「戦友」。
なるほど確かに、事業の成果は事業期間内に出さなければなりません。その意味で本作戦は、当初の期待の成果には届かなかったかもしれず。
しかし、もしより長期的視点で「評価」をするのなら?
この施設の歴史的「意義」を考えるのなら?
<そして伝説へ・・・>
もしかしたら後世において、本作戦の最大の「功績」を評価するとき、「震災復興のプロセスにおいて、最も人材を輩出したプロジェクト」と言われるかもしれません。
それは「チャレンジショップの卒業生が45事業者に達する」という、驚くべき事実も含めてです。
やがてその存在は、ある意味「伝説」として一つの復興の物語になるかもしれません。
そうなるためには、戦友達やチャレンジショップ卒業生など、巣立った者たちの今後の活躍にかかっている。
などと、カサマは一人その壮大な「伏線」の回収方法を、ニッカウヰスキー「宮城峡」を特保コーラで割りつつ、考えるのでした。
(自分もその伏線の一部だからね)
<追記>
1943年2月9日 NHK
「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は
昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、
激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、
その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、
他に転進せしめられたり」
70年後の世界にいる我々は、かつて太平洋の果てで日米の陸海戦力が激闘を繰り広げ、その結果、無謀なる帝国陸海軍は圧倒的な米国の物量の前に惨敗した・・・と総括しております。
しかし、実はその戦闘経緯や両軍の将官、末端の兵士の回顧などをみると、双方があらゆる手を尽くそうと現場で努力し、時期によっては一進一退の、まさに人類史に残る大空・大海原を舞台に双方が死力を尽くした島々の争奪戦であったことがわかります。
戦闘継続中は、実は双方が、最終的にこれほど勝敗が鮮明になるとは思っていなかった。
2012年の7月に、自分の机が東北ろっけんパークの2階に置かれて、その機能の一部を任される形になったとき、真っ先に思ったのが「この戦いはガダルカナルになってしまい、私はそれに派遣された指揮官なのではないか?」という暗澹たる思いでした。
と言うのも、その時点で示されていた東北ろっけんパークの復興作戦計画は、
- 毎週末、40回程度復興商品で催事を行い(2012年当時、「復興商品」なるものはまだほとんどなかった)、
- 6ブースを年間10以上のショップ開業者で埋め(当時は震災により起業希望者がこれほど増えるとは考えられていなかった)、
- さらに9カ月の間に被災地でデザインを活用した15件のハンズオン支援を行う
- これらの3つの要素が高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に連携する(?)
という、味方の戦力の壊滅を意図したかのような恐るべきものであり、当初、その半年ほど前に聞かされ、このプロジェクトの目的とされていた「商都仙台が東北六県の復興のハブとなり、被災地に貢献する」という崇高なものが、いつの間にかナゾの手法による数値目標にブレイクダウンされていたからです。
さらに驚くべきは、このうち1番と2番は見事に達成されたという事実。
一方3番担当ながら、仰天したカサマは混乱し、レンタカーの使用も委託事業の「交通費」内で事後報告処理の措置を交渉する(「公共交通機関換算」が基本の行政事業で、(公共交通機関が壊滅していたこともあり)レンタカーが完全に自由裁量で認められたのは、当時は画期的だった)など、全体戦略とは無関係な矮小な手続き論にばかりに気を取られてしまい、結局3番について数値目標を達成できず、カサマは解任になった経緯がありました(その節は皆さまご迷惑をおかけしました・・・)。
リーダーシップもマネジメントも発揮できず、カサマの人生の中で最大の挫折でした。(あ、いや某A大をクビになった時の方が大きいか)
それから4年。
奇しくもあの激闘の経験とその後の命を削った決死(必死ではない)のシゴトぶりが、今の私を形成し、より高度で大きなプロジェクトにかかわれるようになったのは明らかであります。
「いまだ東北ろっけんパーク作戦は終わらず」
結局、私含め巣立った者たちが、あそこで培われたナニカを、今度は自分の裁量と責任で地域に還元できるようになったとき、あのプロジェクトの真の評価が定まるに違いない。
そう思って、不肖カサマは人生をかけた延長戦を戦っているであります。