カサマは震災直後、「はて?沿岸部は一体どうなっているんだろう?(当時被災地ではテレビが観られなかった)」という、ごく個人的な好奇心から自宅近くの広瀬川(名取川)の土手を下り、閖上入りしたですよ。
閖上した瞬間、自分の人生が「リセット」された感覚に襲われました。
以来、この地は自分の「原点」と考え、気の向いた日にその変化を写真に収め、自分の立ち位置や思考の「アンカー(錨)」を打ちに、自転車で赴くのでした。
(またには真面目な記事もブログに載せなければね。)
August 4, 2013
【閖上】
ゆりあげ、と読みます。
平野被災地の中で最大の集落があった地区で、仙台都市圏に含まれ、2500世帯、7000人が住んでいました。
この地区の復興は「かさ上げ」か「移転」かで未だに揺れていることもあり、工事は進まず、皮肉にも津波被害の遺構や、防潮堤や埋め立てなどの建設復興の最前線などが、肌で感じられる地域となっています。
笠間は震災二日後にこの地区に入りました。そこで人生の転機を明確に認識したのですが、以来、数ヶ月おきに入っては写真を撮りためております。
これは「ライフワーク」にする予定。
閖上地区は、仙台都市圏の中で最大の被災地で、人口7千人の街で死亡率10%に達する750人以上が亡くなるという、今次震災の最も苛烈な被災地の一つです。
非常に大きな集落は広大な空き地になってしまい、かさ上げか、内陸移転かで未だに結論が出ず、沿岸には巨大ながれき処理施設が置かれるという、三陸沿いとは違う、「平野の津波被災地」の象徴的な場所です。
地区内には有志による情報発信施設や、行政による「かさ上げ」を「見える化」した施設、いくつかの津波以外の建物、「日和山」などがあり、30分程度歩くだけで、津波被害と「復興」の難しさを肌で感じることができます。
カサマはこの地に震災2日後に入り、人生観が変わった瞬間と、自分の人生にとっての転機、自分の人生の「Before & After」の瞬間に立ったことを、この地で強烈に認識しました。
以来、「あの日」を忘れないために、2,3か月に一回はここを自転車で訪れます。
仙台市街地から車で30分の場所なので、是非とも仙台市民も目に焼き付けていただきたいところ。
防潮堤を構築する部材で、大きさはテトラポッドほど。
数十個にすべて「H23年災」とプリントされています。
「日和山」より海の方角を望んでおり、七夕飾りが飾られています。
閖上のもっとも象徴的な場所で、今日も大型バスが止まり、多くの方が参拝しておりました。
手前の仮設の建物は社務所になるようで、休憩場所やトイレ、売店など、どんどん設備が拡充されております。
日和山にもいつの間にか小さな社殿(祠?)が立てられ、大きく「閖上」と書かれております。
慰霊碑やソーラー式の街灯、階段の手すりなど、モリモリ進化しています・・・。
この「閖」の字は、この「閖上」という地名以外では使われないという珍しい字で、ある閖上の企業様の商品ネーミングを支援した際にも、やはり「外せない」という感じでした。
閖上港の岸壁も、ようやくつい最近新しくなった模様。
この写真では分かりませんが、防潮堤付近も含めると釣り客が50人ほどおり、ようやく日常に近づいてきた感があります。
右手には、市場も中小機構の補助で仮説が立てられておりました。
震災前は、この地区にサイクルセンターがあったため、年に何回か訪れていて、「魚臭い」という印象がありました。
今はまるで観光ビーチのように、「それ」がない。
写真では中々伝わらないことの一つです。
防潮堤工事現場からがれき処理施設を望む。
手前のコンクリートの塊は、防潮堤の一部(テトラポッドになる?)のようで、まるでおもちゃのブロックのように組み合わせられます。
休日ですが処理施設は稼働しており、機械音が周辺に聞こえております。
震災記録で一番伝えにくいのが、「臭い」と「音」。
こればかりは体験するしかなく、「現地に来てほしい」という理由の一つでもあります。
全身で感じる、というやつですな。
防潮堤の部材の一部になると思われます。
これがはるか先まで、何十個と整列している姿は圧巻であります。
同じ沿岸部の大集落では、仙台市の「荒浜」地区が有名ですが、こちらが移転反対派と賛成派の様々な政治メッセージが看板で主張されてカオスなのに対し、閖上は単純に復興への希望を表現するだけです。
このあたりに、新旧さまざまな世代が集まったコミュニティと、藩政期以来の古い結束のコミュニティとの文化の違いを感じます。
仙台圏の有名な被災地のため、日和山は休日ともなると多くの見学者が訪れます。
観光バスも多く、観察すると、県外からの仙台・宮城への観光客の皆さんが、近くの仙台空港に入る前に立ち寄るスケジュールのようです。
インフラがまだ復旧半ばなこの地域では、ロータリークラブさんが周辺で看板や駐車場などを整備しているようです。
この広大な地域全域のかさ上げが予定されているため、歩道や橋の修復は殆どされていない状況です。
そのため、皮肉にも津波被害のすさまじさをその目で見ることができます。
はるか先に仙台市の中心部の高層ビルが見えますが、これほど仙台に近いにもかかわらず、復旧や復興は中々進まないものです。
説明されないと、単に空き地が広がっているようにしか見えないのが、被災地の共通の悩み。
閖上地区は前述の「かさ上げ」想定の影響で、三陸沿岸部が「きれいにがれき撤去」されたのに対し、閖上はねじり切られた街灯の土台や道路構造物がそのまま残されているのが特徴で、「その先にあったはずの何か」を想像できるのが特徴です。
おそらく揚水ポンプ。
これも元は建物内にあったものと思われます。
様々なパイプや工具などがそのまま残っており、誰でも入れるにもかかわらず、2年経っても「部品取り」などで荒らされていないのは、不思議なものです。
水門なども当時のまま「放置」されております。
簡単に捻じ曲がっているように見えますが、あの細い手すりですら人間に力ではびくともしないので、この津波のすさまじさを「触って」体感できます。
荒浜地区もつい半年ぐらい前までこのような水門がいくつも残っていたのですが、こちらは意外と速く(と言っても1年以上かかった)復旧しておりました。
津波被害を受けた道路構造物がそのまま残されているのがこの地区一帯の特徴ですが、それゆえに被害の大きさを「想像」するための道しるべになります。
地区全体の「かさ上げ」を「見える化」した施設。
先日のNHKスペシャルでも報道されておりましたが、この地区は移転か、かさ上げかで、いまだ多くの議論があります。
しかし、そもそも「この地域一帯を全部かさ上げ」という、考えようによっては凄まじい「力技」が有力案として出てくるあたり、この国の底力と言うか、「歴史」という文脈の中で、いま自分が生きているこの瞬間のこの国は、国力のピークにいるのかも、自分が老人になったときには、こんなことができるだろうか?と考えてしまったり。
それぞれの空き地には、必ずと言っていいほど手作りの、ささやかな慰霊の施設があります。
どこまで行っても、この「小さな慰霊」が続く。
もしかして、ここがもはや生者の営みができない、広大で神聖なサンクチュアリになってしまったのかも、と思ってしまいます。
道路遺構その2。
仙台東部道路からこの閖上地区は見渡せるのですが、一度夜に東部道路を走った際に、この閖上地区が深い闇に覆われているのを見ました。
結局、「かさ上げ」か「移転」かの「意思決定」が行われない限り、こうした街灯が再び閖上を照らすことはないのかも。
何かと国や行政に対して、復興については批判が多いのですが、ここ閖上に関しては、行政側も単に机上の空論をかざすのではなく、「かさ上げ」を「見える化」するなど、行政マンとしての誠意は尽くそうとしているのかなぁ、と感じました。
様々な立場はありますが、行政マンも被災民の一人ですから、結局、「説得」ではなくて「納得」が必要なんだ、というのが、立場を超えた唯一の「共有した思い」なのかもしれません。
かさ上げをシミュレーションした山から撮影。
この広大な地区にかつて7000人の住む大集落があったわけですが、さらに驚くべきは、この見える範囲一帯を全て3m以上かさ上げするという「力技」。
その技術、経済力は単純に驚愕です。
しかし、もしかしてここに住んでいた方にとっては、何かこう、思い出を含めた何かを土の下に埋めてしまうような感覚もあるのかなぁ、と想像。
上空に彩雲が出たがれき処理施設を再掲載。
撮影直後、震度5の地震が再び・・・。
まだ何も終わっておりませんなぁ。
カサマは震災直後、「はて?沿岸部は一体どうなっているんだろう?(当時被災地ではテレビが観られなかった)」という、ごく個人的な好奇心から自宅近くの広瀬川(名取川)の土手を下り、閖上入りしたですよ。
閖上した瞬間、自分の人生が「リセット」された感覚に襲われました。
以来、この地は自分の「原点」と考え、気の向いた日にその変化を写真に収め、自分の立ち位置や思考の「アンカー(錨)」を打ちに、自転車で赴くのでした。
(またには真面目な記事もブログに載せなければね。)
August 4, 2013
【閖上】
ゆりあげ、と読みます。
平野被災地の中で最大の集落があった地区で、仙台都市圏に含まれ、2500世帯、7000人が住んでいました。
この地区の復興は「かさ上げ」か「移転」かで未だに揺れていることもあり、工事は進まず、皮肉にも津波被害の遺構や、防潮堤や埋め立てなどの建設復興の最前線などが、肌で感じられる地域となっています。
笠間は震災二日後にこの地区に入りました。そこで人生の転機を明確に認識したのですが、以来、数ヶ月おきに入っては写真を撮りためております。
これは「ライフワーク」にする予定。
閖上地区は、仙台都市圏の中で最大の被災地で、人口7千人の街で死亡率10%に達する750人以上が亡くなるという、今次震災の最も苛烈な被災地の一つです。
非常に大きな集落は広大な空き地になってしまい、かさ上げか、内陸移転かで未だに結論が出ず、沿岸には巨大ながれき処理施設が置かれるという、三陸沿いとは違う、「平野の津波被災地」の象徴的な場所です。
地区内には有志による情報発信施設や、行政による「かさ上げ」を「見える化」した施設、いくつかの津波以外の建物、「日和山」などがあり、30分程度歩くだけで、津波被害と「復興」の難しさを肌で感じることができます。
カサマはこの地に震災2日後に入り、人生観が変わった瞬間と、自分の人生にとっての転機、自分の人生の「Before & After」の瞬間に立ったことを、この地で強烈に認識しました。
以来、「あの日」を忘れないために、2,3か月に一回はここを自転車で訪れます。
仙台市街地から車で30分の場所なので、是非とも仙台市民も目に焼き付けていただきたいところ。
防潮堤を構築する部材で、大きさはテトラポッドほど。
数十個にすべて「H23年災」とプリントされています。
「日和山」より海の方角を望んでおり、七夕飾りが飾られています。
閖上のもっとも象徴的な場所で、今日も大型バスが止まり、多くの方が参拝しておりました。
手前の仮設の建物は社務所になるようで、休憩場所やトイレ、売店など、どんどん設備が拡充されております。
日和山にもいつの間にか小さな社殿(祠?)が立てられ、大きく「閖上」と書かれております。
慰霊碑やソーラー式の街灯、階段の手すりなど、モリモリ進化しています・・・。
この「閖」の字は、この「閖上」という地名以外では使われないという珍しい字で、ある閖上の企業様の商品ネーミングを支援した際にも、やはり「外せない」という感じでした。
閖上港の岸壁も、ようやくつい最近新しくなった模様。
この写真では分かりませんが、防潮堤付近も含めると釣り客が50人ほどおり、ようやく日常に近づいてきた感があります。
右手には、市場も中小機構の補助で仮説が立てられておりました。
震災前は、この地区にサイクルセンターがあったため、年に何回か訪れていて、「魚臭い」という印象がありました。
今はまるで観光ビーチのように、「それ」がない。
写真では中々伝わらないことの一つです。
防潮堤工事現場からがれき処理施設を望む。
手前のコンクリートの塊は、防潮堤の一部(テトラポッドになる?)のようで、まるでおもちゃのブロックのように組み合わせられます。
休日ですが処理施設は稼働しており、機械音が周辺に聞こえております。
震災記録で一番伝えにくいのが、「臭い」と「音」。
こればかりは体験するしかなく、「現地に来てほしい」という理由の一つでもあります。
全身で感じる、というやつですな。
防潮堤の部材の一部になると思われます。
これがはるか先まで、何十個と整列している姿は圧巻であります。
同じ沿岸部の大集落では、仙台市の「荒浜」地区が有名ですが、こちらが移転反対派と賛成派の様々な政治メッセージが看板で主張されてカオスなのに対し、閖上は単純に復興への希望を表現するだけです。
このあたりに、新旧さまざまな世代が集まったコミュニティと、藩政期以来の古い結束のコミュニティとの文化の違いを感じます。
仙台圏の有名な被災地のため、日和山は休日ともなると多くの見学者が訪れます。
観光バスも多く、観察すると、県外からの仙台・宮城への観光客の皆さんが、近くの仙台空港に入る前に立ち寄るスケジュールのようです。
インフラがまだ復旧半ばなこの地域では、ロータリークラブさんが周辺で看板や駐車場などを整備しているようです。
この広大な地域全域のかさ上げが予定されているため、歩道や橋の修復は殆どされていない状況です。
そのため、皮肉にも津波被害のすさまじさをその目で見ることができます。
はるか先に仙台市の中心部の高層ビルが見えますが、これほど仙台に近いにもかかわらず、復旧や復興は中々進まないものです。
説明されないと、単に空き地が広がっているようにしか見えないのが、被災地の共通の悩み。
閖上地区は前述の「かさ上げ」想定の影響で、三陸沿岸部が「きれいにがれき撤去」されたのに対し、閖上はねじり切られた街灯の土台や道路構造物がそのまま残されているのが特徴で、「その先にあったはずの何か」を想像できるのが特徴です。
おそらく揚水ポンプ。
これも元は建物内にあったものと思われます。
様々なパイプや工具などがそのまま残っており、誰でも入れるにもかかわらず、2年経っても「部品取り」などで荒らされていないのは、不思議なものです。
水門なども当時のまま「放置」されております。
簡単に捻じ曲がっているように見えますが、あの細い手すりですら人間に力ではびくともしないので、この津波のすさまじさを「触って」体感できます。
荒浜地区もつい半年ぐらい前までこのような水門がいくつも残っていたのですが、こちらは意外と速く(と言っても1年以上かかった)復旧しておりました。
津波被害を受けた道路構造物がそのまま残されているのがこの地区一帯の特徴ですが、それゆえに被害の大きさを「想像」するための道しるべになります。
地区全体の「かさ上げ」を「見える化」した施設。
先日のNHKスペシャルでも報道されておりましたが、この地区は移転か、かさ上げかで、いまだ多くの議論があります。
しかし、そもそも「この地域一帯を全部かさ上げ」という、考えようによっては凄まじい「力技」が有力案として出てくるあたり、この国の底力と言うか、「歴史」という文脈の中で、いま自分が生きているこの瞬間のこの国は、国力のピークにいるのかも、自分が老人になったときには、こんなことができるだろうか?と考えてしまったり。
それぞれの空き地には、必ずと言っていいほど手作りの、ささやかな慰霊の施設があります。
どこまで行っても、この「小さな慰霊」が続く。
もしかして、ここがもはや生者の営みができない、広大で神聖なサンクチュアリになってしまったのかも、と思ってしまいます。
道路遺構その2。
仙台東部道路からこの閖上地区は見渡せるのですが、一度夜に東部道路を走った際に、この閖上地区が深い闇に覆われているのを見ました。
結局、「かさ上げ」か「移転」かの「意思決定」が行われない限り、こうした街灯が再び閖上を照らすことはないのかも。
何かと国や行政に対して、復興については批判が多いのですが、ここ閖上に関しては、行政側も単に机上の空論をかざすのではなく、「かさ上げ」を「見える化」するなど、行政マンとしての誠意は尽くそうとしているのかなぁ、と感じました。
様々な立場はありますが、行政マンも被災民の一人ですから、結局、「説得」ではなくて「納得」が必要なんだ、というのが、立場を超えた唯一の「共有した思い」なのかもしれません。
かさ上げをシミュレーションした山から撮影。
この広大な地区にかつて7000人の住む大集落があったわけですが、さらに驚くべきは、この見える範囲一帯を全て3m以上かさ上げするという「力技」。
その技術、経済力は単純に驚愕です。
しかし、もしかしてここに住んでいた方にとっては、何かこう、思い出を含めた何かを土の下に埋めてしまうような感覚もあるのかなぁ、と想像。
上空に彩雲が出たがれき処理施設を再掲載。
撮影直後、震度5の地震が再び・・・。
まだ何も終わっておりませんなぁ。