先日、組合員と待ち合わせて塩釜に行く機会がありました。
待ち合わせ場所は、本「塩釜」駅。
その後、ちょっと調べものに行った役所は、「塩竈」市役所。
そして、つい1か月前にたくさんの参拝客を集めたのは有名な、「鹽竈」神社。
「しおがま」には、この三つの表記が混在しています。
どれが正しいのか?と言えば「鹽竈」ですが、「鹽」の文字は一般に使用されないので、神社以外では当用漢字の「塩」に置き換えられて仕方なし、という事で、市としての正式名称は「塩竈」市となっています。
でも、「竈」の文字も21画あって難しいので、使用上は「竈」でも「釜」でもどちらでも良いという事になっているそうですが、「竈」と「釜」は厳密には意味が違います。
「竈」は上に鍋釜を乗せる「かまど」の意味で、「釜」は上に乗る「かま」の方です。
なので、役所としては「竈」の文字を啓蒙しようと、特別に専用のHPも設けて、書き順から説明しています。
ぜひ閲覧してみてください。
それはそれとして、やはり神社好きの私としては、「鹽竈神社」の話をしたいわけですが、書きたいことが色々たくさんあって大変なので、ほんのさわりだけ、語らせてください。
日本にはいわゆる「神社」と言うものが、小さなものまで含めると20~30万社はあると言われています。
この内、文化庁が正式に把握しているものが約8万8千社強。
その中で神職の人が常駐している神社となると約2万社だそうです。
現在では原則として「全ての神社は同格」(伊勢神宮は除く)とされていますが、かつては「社格」と言うものがあって、神社は位付けされていました。
歴史と共に、色々な位付けがあるのですが、その最も古いものが、927年にまとめられた「延喜式」(えんぎしき)に「神名帳」(じんみょうちょう)としてリスト化されて出ている2861社で、この「延喜式神名帳」に掲載されている神社を特に「式内社」(しきないしゃ)と言います。
式内社の中でも位付けがあるのですが、とにかく「式内社」と言うだけで、古来よりの縁起と霊験がある、由緒正しい神社という事になるわけで、現在でも有名で立派な神社のほとんどはこの「式内社」に該当します。
対して、「延喜式神名帳」に載っていない(リスト化されていない)神社を「式外社」(しきげしゃ)と呼び、これには「延喜式」の編纂当時に存在しなかった神社や当時の朝廷の勢力範囲外や独立勢力の神社が含まれます。
で、「鹽竈神社」ですが、これが「式外社」なのです。
創建は「延喜式」編纂よりもずっと前で、当時でも十分有名な神社だったのにもかかわらず、です。
それが証拠に「延喜式」の前、820年に撰進(せんしん=書物を天皇に奉る事)された「弘仁式」では、「鹽竈神を祀る料壱萬束」と記載されていて、祭祀料10,000束が朝廷から寄進されているという記述があるのです。
また、「延喜式」自体にも、先のリスト「神名帳」には出ていない(式外社)鹽竈神社に10,000束を寄進する旨の記述があるのです。
鹽竈神社以外に朝廷から寄進を受けている神社は、式内社2861社中の3社のみでそれぞれ、2000束、2000束、800束であることを考えると、式外社の鹽竈神社に対して破格の扱いであることがわかります。
ちなみに「束」(そく/つか)とは、稲の量の単位で一掴みの稲束が「一把」(わ)で、1束=10把。一掴みというくらいなので、元は目分量の単位ですが、だいたい両手の中指と親指とを合わせたサイズが「一把」というのが基本だったらしいです。現在の量で言えば、1束はだいたい米4升くらい(当時は1升=1把でしたが、当時の1升は現在の0.4升くらい)。なので、10,000束と言えば米40,000升、約60,000kg=60tのお米に相当しますでしょうか。
さらにちなみに、当時の陸奥の国の税収が603,000束と言う話ですから、ここからも10,000束というのは、単独で寄進される額(量)としては、相当なものだという事が分かります。
この破格の扱いにもかかわらず、「式外社」であるというナゾ。
また、「鹽竈神社」は「左宮・右宮」として「武甕槌神(たけみかつちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)」が同一社殿の左右に祀られ、この本殿と90度向きが違う場所に別宮として「塩土老翁神(しおつちおじのかみ)」が祀られるという、とても特殊な形態で三神が祀られています。
このような形態は他に類を見ません。
何故このような形態になったのかと言うナゾ。
これらのナゾを考察するだけでも、「鹽竈神社」は大変興味深いのですが、この気持ち、伝わりますかねぇ。
左側が本宮で右側が別宮です。
お近くにご訪問の際には、ぜひ参拝を。