以前にも、何故、伊達政宗は遣欧使節団を派遣したのかは記事にしましたが、昔からどうしても解けない疑問を持っていました。
それは、あの当時は中国や東南アジアとの交易や、東インド会社があるインド経由でヨーロッパに渡っていたものと思っていたのですが、政宗の遣欧使節団はメキシコ経由でヨーロッパに渡っているということでした。
何故、メキシコ経由でスペイン(イスパニア)・ローマに渡ったのか。皆さんは判っていましたか。
正使:ルイス・ソテロ、副使:支倉常長としてスペイン・ローマに旅立った一行は、実は東アジア経由では行けなかったのです。何故に?・・・それはソテロがイスパニアの神父だったから。
世界の歴史では15世紀頃より船による大航海が始まり、ポルトガルが喜望峰航路を見つけ、次々と植民地化していくが、イスパニアもそれに負けず新大陸を発見を目指していた。その結果両国間の諍いがたえずついにローマ法王の採決を仰いだのである。
ローマ法王アレキサンドル六世は、1494年に教書を出し、大西洋のアゾレス島を通過する子午線の東はポルトガル領、その西はイスパニア領とすることに決めた。そこで中南米での発見の陸地はイスパニア領とされたのである。
この当時の日本には、ポルトガル系の神父とイスパニア系の神父がいたのである。九州のキリシタン大名はポルトガル系であったが、政宗はイスパニア系と見られていたようだ。
九州の大名である大村・有馬氏などからローマに送った少年使節団は、インド洋を経て喜望峰を渡りローマに行ったが、遣欧使節団はインド洋を通れず、イスパニア領の呂宗から同国領のノビスバン(メキシコ)を通り、大西洋を横断してイスパニアに行くこととなったのである。