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ちょっと知りたい不動産の一口知識

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伊達政宗が慶長遣欧使節団に託したこととは

今年は、1613年に伊達政宗がルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使としてスペイン、ローマに慶長使節団を派遣してから丁度400年目にあたります。政宗がなぜあの時代に危険きわまりない大航海事業を行ったのかは、現在まで種々の議論、推論がありました。尤もな理由としては、外交と交易により新しい技術、物産を取り入れ、藩を近代化させようとしたこと。や秀吉や家康より若い世代の政宗は、スペイン、イタリアの強大な力を背景として、先進技術を取り入れ天下取りを狙っていたのだ。などの推論がまことしやかに流れていました。

1月初旬、異業種交流会「はなもく七三会」の例会において、元仙台市博物館館長であり、現在、宮城県慶長使節団ミュージアム館長である、濱田直嗣氏の講演を聴き、慶長使節団の本来の目的を知るとともに、深い感銘をうけたので、お話しします。

1600年に政宗が仙台に居を定め、城下町の新設、主要神社・仏閣の造営、そして仙台城本丸が完成した翌年、1611年に「慶長の大津波」と言われた大地震が発生したのです。当時の伊達藩記録や徳川の駿府記によれば、津波は多賀城祉に達し、死者は5千人余と記載されています。伊達藩の当時の人口は数万人だったでしょうから、その被害は甚大でした。予断ですが、長町にある「蛸薬師」は、京都にある蛸薬師とは由来がことなり、なんとこの慶長津波時に長町まで津波が押し寄せ、側にある池に蛸が頭に薬師様を乗っけて流れ着いたことに由来しているらしいのです。

「慶長の大津波」の甚大な被害を目の当たりにして、政宗は何を考えたのでしょうか。今のような技術力やインフラ整備がない当時のことでしたが、《大震災二年後に敢行された使節派遣の動機には、危難から復興するための柱の一つに据えたという内容が色濃く、単純な思いつきによる派遣ではなく、切実な再生の目的を背負った計画であることを想定させる。海外との通商産業、人的交流を実現させて復興に資することが、慶長使節に課せられた使命だった。》と濱田氏は結んでいます。

政宗は、未曾有の大震災に遭遇しても、敢然とその危機に立ち向かう「伊達をする」心を領民に示したのでした。400年を経過して、東日本大震災に遭遇した我々は、今まさに「伊達する」心を胸に、政宗の偉大な功績に恥じない行動を取る必要があります。

ちなみに、大津波のあった3年後に徳川幕府を完全に確立させた、大坂冬の陣、夏の陣が起こっています。復興による資金難の政宗には相当に辛い進軍ではなかったかと思いますね。

支倉常長.jpg

この記事を書いた人

松本 真明

松本 真明(株式会社マイザ)

再開発プランナー第100068号
土地&建物オーナー資産活用スペシャリスト
西友南仙台店定期借地事業、柏木分譲マンション等価交換事業

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