カサマは独立以来、毎年6月の第1週に広く見聞を広めるための「スタディーツアー」と称して、「バカンス」を頂いているですよ。
いっつもゴールデンウィークに休めない代わりですが。
もうこのためだけに生きているぐらい、人生唯一の楽しみです。
今年で3年目となりましたが、今回は上海出張に始まり、さらに毎年6月第1週の土曜日に行われる大学院の同窓会出席を含め、実に11日間の長丁場となりました。
これまで黒川温泉、佐賀関(関サバ・関アジ)、馬路村(ゆずビジネス)、神戸(阪神大震災)、直島(アート&離島観光)、高松丸亀町商店街、神山町(メディア&移住政策)、上勝町(葉っぱビジネス)と、四国・九州を中心に東北地方の震災復興の参考になる、いわゆる地域ブランディング・地域づくりの有名事例を回っておりました。
(昨年の例「(Facebook転載)神山町のナゾ」)
http://www.areamark.jp/blog/kasama/2014/12/facebook-4.html
この一次情報へのアクセス経験はこの業界ではかなり強力な「強み」でして、
「馬路村?いや~あそこ途中の山路が狭くて、結構大変でした。」
「神山町?イメージと違ってちゃんと集落内にコンビニも信号もあるので、結構都会ですよ。徳島市内や空港からも、車で45分で着くし。」
とか、あたかも知り尽くしたようなしたり顔で、とーほぐ人には未知の西日本の有名事例を語ると、その時点で「こ、こやつ・・・できる・・・!」と勘違いしてくれるのでした。
もっとも学生時代の「フィールドワーク」と称して全国を旅していたのと、何が違うんだといわれそうですが。
それはともかく、カサマの復興がらみの仕事を鑑み、今年か来年の仕事に関係しそうだな、というリサーチクエスチョンからスタートしており、旅の様子は順次Facebookで公開。これを見ていると、実はカサマがどんなシゴトを将来しつつあるのか、ある程度推測できるのでした。
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2015 June 6
【災害遺構】
雲仙普賢岳の「災害遺構群」を見てきたですよ。
あいにくの雨で普賢岳山頂まで登るも、肝心の「昭和新山」は近くで見られませんでしたが。普段運動不足の体には堪えた。。。
ちょうど行った日は、24年前の例の44名の死者行方不明者を出した「大火砕流」の前日ということもあり、体験型教育施設でもある「雲仙岳災害記念館」は修学旅行生で一杯でした。
道の駅に併設された「土石流被災家屋保存公園」は圧巻で、当時の被災家屋をそのまま保存(一部移設)。
土石流監視所が隣接する「旧大野木場小学校被災校舎」などは、大川小学校を代表に学校を震災遺構として残そうとする例が多い東北被災地では、参考になるところがありましよう。
記念館では平成災害に加え、江戸時代に起きた死者一万五千人を超える日本史上最大の山岳災害「島原大変肥後迷惑」(1万5千人死亡)の展示とその地学的原理解説も大きくあり、津波常襲地域の三陸でも参考になる視点です。
報道機関に巻き込まれた形で地元の犠牲者が出たり、数年間も続いた噴火と長期避難の苦しみといったその「悲劇性」は最小限に抑えられ、そこから導きだされた「教訓」すら適切な分量に調整され、この地の自然と、そこで共生あるいは戦ってきたニンゲンの歴史という文脈ににまで昇華している。
記念館内のミュージアムショップは非常に充実。売上ランキングなども。一応学習施設ですから、単なる物産市になっていない努力が見られます。一方で「被災家屋」の展示は道の駅内に有り、かなり観光と一体化している印象です。この辺りのメリハリは、全体デザインの中で最適化されたかどうかは不明ですが、参考になります。
火砕流の速度を体験する施設。此のガラスの下が火砕流のスピードで赤く光るのですが、時速100キロなのであっという間。歓声が上がります。
こんな単純な仕組みでも、子供達には良い体験。むしろ科学館的な展示が多く、「体験型」は大きなキーワードですね。
こうした一連の災害遺構群が、その他の自然資産、そして過去の災害史とともに「編集」されて、「ジオパーク」として再編集されているところが大きな特徴です。
写真では伝わりにくいのですが、とにかくこの島原の被災地域はジオパークというか「ジオフォーミング」されておりまして、徹底的に巨大なコンクリートと監視システムによって防御されております。
何かこう、陸前高田あたりの「テラフォーミング」の未来を見ている感じですなぁ。
その是非はともかく、単純な巨大さは何とも純粋な驚きと感動を起こします。
普賢岳もそもそもやりがいのある登山が可能で、昭和新山近くには「ネイチャーセンター」があって、野外活動の合宿なども可能(当日は休館日だったため侵入できず)。こうした「自然体験」と「災害学習」が一体となり、雲仙ジオパークの「厚み」を構成しています。
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東日本大震災の当日を体験し、翌日には津波被災状況を目撃した時に思ったのは、「なんということだ。もはや人知を超えておる。これが真の自然の脅威・・・。これではいかなる防御も無意味ではないか」という絶望感でした。
ところが、さほど被災状況が深刻でなかったカサマは、それから2週間もたつと友人と焼き肉をし、テレビのCMがまだ全部ぽぽぽぽーんなのに、あたかも遠い昔の記憶のように震災当日を思い出す始末。
そもそも私は宮城県沖地震防災(洗脳)教育世代にもかかわらず、その対策は防災バックと3日分の食料、そしてプロパンガスのマンション選択のみ。30年以内に巨大地震発生99%とかの情報すら、震災二日前には震度5強の大地震があったにもかかわらず、全く無防備でした。
いや、「経験の蓄積」ですら、防災意識を備えるには不十分。
- 1978年6月 (震度6)宮城県沖地震
- 2003年5月 (震度6弱)三陸地震「建物崩壊一軒もなく死者0、宮城県無敵じゃね?(勘違いの始まり)」
- 2003年7月 (震度6強+震度6弱+震度6弱)宮城連続地震「一日3回震度6」
- 2005年8月 (震度6弱)8・16宮城地震「スポーツパーク松森天井崩落」
- 2008年6月 (震度6強)岩手・宮城内陸地震内陸「山体崩壊」
- 2011年3月 (震度7)東日本大震災「終わりの始まり」
- 2011年4月 (震度6強)東日本大震災最大余震「心が折れた」
こうやって見ると、いわゆるグローバル視点でいうと何故宮城県に住んでいるのかというレベルですが、結局これほどの地震体験があったにもかかわらず、記憶や教訓を残すことは難しいもの。
結局、家々の礎石だけが残った荒浜地区や、はるか先まで続く壮大な防潮堤、家の近くで放置されていた東北新幹線MAXやまびこ139号など、圧倒的で具体的に見えるもの、触れられるものがないと、人間、なかなか記憶や教訓は残せないのかもしれません。
その意味で、雲仙普賢岳ジオパークと災害遺構群の「ビジュアル的に、体験的に、自然災害を地域史の中で再定義」して記憶と教訓を残す「見せ方」は、今後東北が直面する震災遺構の保存の意義を考えるうえで、参考になるかもしれません。