第1回目は、秀吉の太閤検地が現在の登記簿謄本の基になっている、との話しでしたが、今回は「借地権」がどのように生まれたのかのお話しです。
それは遠い昔、約1300年前に遡ります。大化改新(飛鳥時代:645年)で「公地公民」制(土地と人民とは、大和朝廷の所有と直接支配に属するという制度)が樹立されましたが、新規開墾地については、「三世一身法」(いままであった灌漑設備を使って耕地開発したものは、その個人一代限り、また新しい灌漑設備を造り耕地開発した者には、その本人、子、孫、曾孫まで、その土地の私有を認める。その後は大和朝廷が所有)を定め、新規土地開発を奨励しました。
しかし、朝廷の権力が弱まってくると、期限が来ても朝廷に返還されないケースが多くなり、資力の有る人は使用人を雇い農地を開墾させて賃貸し、ここに地主と小作人という関係ができあがっていきます。
その後、秀吉が太閤検地を行う訳ですが、江戸時代に入ると中期には新田開発が盛んになり、豪商が幕府に願い出て、例えば海岸先を埋め立てる造成許可を貰い、遠浅の海に堤防を築き、灌漑用水路などを整備して、その土地を小作人に小作料を取って賃貸することになります。しかし農民の方では、借りた土地のままでは作物が作れず、肥沃な土を運んできて耕作することになります。そうなると、その土を置いた地盤や堤防、灌漑用水などは地主のものであるが、運んできた肥沃な土は農民のものであるとの主張が起こり、これを「上土権」と言いました。