当組合の上越視察まであと1ヶ月を切りました。
で、唐突に、
「上越」のように「越」に「上中下」が付いているものと
「越前」のように「前後」が付いている土地の呼び名があって、
どこがどこやら自分の中で整理がついていないことに気づき、
例によって調べてみました。
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基本は「越(こし)の国」。
現在の山形県の南側から福井県の北側まで、
日本海沿いに細長く連なる一つの行政区分が「越の国」でした。
・・・そうか、だからこのあたりで生産されるお米が「コシヒカリ」と命名されたんだ、
と、あらためて気づきました。
古くは「古志」と書かれていたようですが、これが、まず、
「越前(えちぜん)」「越中(えっちゅう)」「越後(えちご)」と、
京都に近い方から三つの国に分かれます。7~8世紀頃の話です。
この時点で「こし」ではなく「えつ」になっちゃうんですね。
「越前」からはさらに「能登」「加賀」が分かれ、「越後」からは「出羽」が分かれます。
「越中富山の薬売り」のとおり、富山は越中に含まれ、
能登半島あたりは元々は越前であり、出羽が分かれた残りの越後が新潟県に相当するわけですね。
で、その「越後」の中が、またまた京都に近い南の方から順番に
「上越後」「中越後」「下越後」と三つに分かれ、
エリアの呼称として呼ばれるようになった、と。
なので、当初はそれぞれ「かみえちご」「なかえちご」「しもえちご」と、
「ご」までつけて表記され呼ばれていたものが、後に、表記の「後」が取れて、
「上越」を「かみえち」とは読まず「じょうえつ」と呼ぶようになったようです。
なので、来月訪問する「上越」は、本来は「古志の国の後ろの上」と言う意味で、
大きな国の中の位置的な意味合いのみで命名された呼び名なのだという事が分かりました。
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「上下」をつけて国を分け、その後、表記の文字が省略されてしまったうえ、
読み方ともリンクしなくなっちゃったパターンでは、
「上野(こうづけ)」や「下野(しもつけ)」が最も極端ですよね。
元々は、今の群馬あたりに「毛野(けの)」という国があり、
これが「上毛野(かみつけの)」と「下毛野(しもつけの)」に分かれました。
ここまでは、単に「上下」が付いただけなので、理解しやすいですが、
その後、読み方の方は「しもつけの」の「の」がとれて「しもつけ」となり、
その表記の方は「下毛野」の「毛」の方がとれて「下野」となってしまったために、
不思議なヨミガナになってしまいました。
「上野」に至っては、同じく「毛」が略されて、
読み方は「かみつけの」→「かみつけ」→「こうずけ」と、
さらにひとひねり加わってるので、由来がもっと難解になってしまいました。
ちなみに、少し前に河川の氾濫で被害を出した「鬼怒川(きぬがわ)」は、
元々この「毛野」の国の国境を流れる川で、
「毛野河(けのかわ)」が「けぬがわ」「きぬがわ」と変化して
「鬼怒川」の文字が当てられるようになったようです。
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そもそも、「前後上中下」をつけて分けたり、わかりやすくしたのに、
その後文字を略してしまい、わかりにくくなってしまった最も大きな原因は、
7~8世紀当たりの天皇が、
「地名に使う表記は、なんかカッコイイ文字で二文字だけにしてね」と、
全国に強制したのが始まりと思われます。
実際、奈良時代の和銅6年(713年)には、
上記の二文字にしろっていう内容を決まりとして発布した「畿内七道諸国郡郷着好字」、
いわゆる「好字令」が出され、この前後で全国の地名が二文字化してます。
中国と交流を開始してみて、
こちらの国名を勝手な、しかも見下したような文字でかかれるのも、
なんだかムカついたんでしょうね、おそらく。
結果、三文字以上の地名は、読みは別として、表記は二文字に縮め、
逆に一文字の地名は、無理やり二文字になる様に伸ばしたり、文字を変えたりして、
現在の地名が生まれています。
「木」の国(きのくに)は音も文字も一文字なので、「きい」として「紀伊」としたり、
「泉」の国(いずみのくに)は、よさげな文字の「和」を加えて「和泉」としたり。
・・・でも、その由来をこうして知ることが、また、楽しいんですけどね。
「雁木」(がんぎ)とは、建物本体を道路から少し下げて庇を張り出し、これが連続してアーケード状になっている造りを言います。
雪が多いこの地方では、こうして冬場の生活通路を確保ました。
当然この庇の下は、個人所有地なので、道路ではありませんが、助け合いの精神ですね。