去る6月21日(土)に、「まっくる まち巡りツアー」の第2弾として、薬師堂近辺をウロウロと歩きながら、ガイドしてきました。
スタッフまで入れると、20名以上を引き連れてのまち巡りで、神社仏閣についてから地名由来、歴史背景や民間伝承の話等々、とりとめもない話をしながら約2時間(の予定が30分くらいオーバーしてしまいました)歩いてきました。
終了後のアンケートでは、概ね楽しんでいただけたようでしたが、何せ休憩する場所がないエリアで歩きっぱなし、立ちっぱなしの2時間でしたので、ご参加いただいた皆様には、よくご辛抱いただきまして、誠にありがとうございました。
どうも私の場合、話をしているそばから、別のことを思い出し、その話が面白くなって、つい、説明を重ねるようことをしていたので、お話ししようと思ったことの内いくつかは、結局触れずじまいだったりしたので、この場で少し書いておこうか、と。
いずれも、「小ネタ」の話なので、酒の席でのイヤミにならない程度のウンチク語りにはちょうど良いかな、と。
また、いずれも、あくまで諸説ある中で私が気に入ったもの、納得できるものをご紹介するものなので、「これが100%正解」ということではありません。
その辺はふわ~っとした感じで読んでくださいね。
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■朝観音に夕薬師
お正月の各種行事は、仙台に限らず日本各地で、元日から最初の7日間を「大正月」その後の7日間を「小正月」として、それぞれに様々な行事が行われてきました。
初詣は大正月の初めに行い、七草粥は大正月の最後の日に行われる風習ですし、どんと祭は、小正月の最後に行われる行事というわけです。
「大正月」「小正月」というのは、元は特定の期間を指していましたが、それぞれの期間に行われる行事の盛大さによって、その行事を行う特定の日を指すように変化していき、東北では特に「1月14日」(もしくは15日)を小正月という場合が多く、期間ではなく特定の日を指す場合が多いようです。
で、かつては1月7日の夜、もしくは1月8日の朝に、「大正月」の1日目である元旦と同じように、「小正月」の1日目に氏神様にお参りする風習があり、これを「暁参り(あかつきまいり)」と呼んでいました。
「暁(あかつき)」は夜明けのことですから、1月7日の内にお参りに出かけ、1月8日(小正月の最初の日)を神社へのお参りで迎えるのが、本来の作法です。
どこかで「小正月」が1月14日を示すようになって(小正月の終わり、つまりお正月行事の最後の日なので、この日が特定されたのでしょうか?)、いつしか「小正月」の「暁参り」を、14日の夜から15日の朝に行うようになったところもでてきます。
仙台の「どんと祭」は、この「暁参り」が先にあって、お参りの時に住民が正月の終わりということで、松飾等を神社に持ち寄り焚き上げたのが起源とも言われています。
そんな「暁参り」のお参りの方法として、かつての仙台で言い習わされたのが、表題の「朝観音(に)夕薬師」です。
つまり、一年のご利益をお願いするのに、この「暁参り」の時には、朝は「万願寺の聖観音様」にお参りし、夕方には「薬師堂の薬師如来様」にお参りするというものです。
「万願寺」は東北電力本店ビルと愛宕上杉通りの間にあるお寺です。
万願寺は「天台宗」、薬師堂のある陸奥国分寺は「真言宗」のお寺なので、庶民としては両方の宗派にお参りして、ご利益を確実なものにしようとしていたのでしょうか?
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■諱(いみな)・字(あざな)・諡(おくりな)
今回のまち巡りでは、メインとなる「陸奥国分寺」を建てるように詔を出した人物として「聖武天皇」のお名前を紹介しました。
その「聖武」という名称は、天皇の没後に贈られた「諡号(しごう)」であり、生前のお名前ではありません。これを「諡(おくりな)」といいます。
やんごとない方々には、このような「諡」がついていますが、そこまでではなくても、その昔の偉い方々には、本当の名前としての「諱(いみな)」と、いわゆる呼び名・通称となる「字(あざな)」を持つ方々がおりました。
これは、下々の者が目上の方々の本名をお呼びするのはあまりに不遜である、申し訳ない、というところで生まれたものでしたので、結果「諱」で呼ばれるのは、目上(しかもかなり上)の人からか、もしくは極近親者のみで、通常は常に「字」で呼ばれていたわけです。
(生前の名前が「名」で、死後の名前が「諱」とされたのが最初という話もあり、どこかで混同がおきて、生前から「諱」をつけるようになっていったようです)
元は中国での風習でしたので、例えばあの三国志で有名な「諸葛亮孔明」も
諸葛・・・苗字
亮・・・・諱
孔明・・・字
なので、「諸葛/亮/孔明」と、諱と字を混ぜて呼ばれることはありませんでしたし、特に生前は先の説明の通り、字で呼ぶのが礼儀とされていましたので、「諸葛/孔明」の表記が正しいのです。
ちなみに「諸葛孔明」は死後に「忠武侯」という「諡」も贈られました。
これが日本に入ってきて、中世の頃の貴族には同じように「諱」「字」を持つようになりましたが、ここで、日本特有の「祟り」を恐れる考え方と「言霊」への信仰が、混ざってきます。
どういうことかというと、政権を握るためには、周りの政敵を追い落とし、時にはその命も奪うことをするわけですが、そういうことをすると、「祟り」として、後に自分の身に振り返ってくることがあると、当時の人は信じていました。
そして、特定の人物を「祟る」時には、その人物の本当の名前が分からないとできないとの考え方があったのです。
これは死者からの「祟り」だけでなく、生者からの「呪い」も同様です。
つまり「名前」を言葉にすれば、その言葉の持つ「言霊」(言葉の持つ霊的な力)によって、その名前の本人に力が働き、その本人を支配できるようになるということです。
そこで、「祟られ」たくない人たちは、本当の名前=「諱」をひた隠しにし、死ぬまで通称=「字」でしか自分を呼ばせないようにして、「祟り」を避けるわけですね。
本来は、「恐れ多い」という感覚から生まれたはずの「諱」は、日本に来て、その発言を「避ける」名前=「忌み名」へと、こうしてその性質を変えたともいえます。
通称の方の「字(あざな)」は、後に「渾名(あだな)」と混同されていきます。
厳密には、「字」は通称とはいえ、正式な名前として自他ともに認めるものですが、「渾名」は周りの人が勝手につける名前ですから、本人の了承がありません。また「あだな」は「徒名」等とも書き、遊び人を表す言葉でしたが、「別名」という意味で似通っていたので、混同されたのかもしれません。
従って、「字」と「渾名」はその意味で違うものですが、音としての読みは、「あざな」が「あだな」の語源となっているとも言われています。
(他の説もあります)
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他にも、話の流れで触れようと思ったネタには、こんなのも。
●サイコロの「1」だけ、何故「赤」なのか?
→本来は、サイコロの目は方位を表しており、「1天地6、南3北4、東5西2」となっていて、「1」は「天」を表すので「太陽」を表すので赤い。
●何故「陸奥」を「みちのく」または「むつ」と読むのか?
→元は「道の奥(みちのおく)」と呼ばれていた。(ここでいう「道」は「道路」の意味というよりは「地域」という意味で、東北の果ての地域を指している)
これが、「みちのおく」→「みちのく」→「みちのくに」→「むつのくに」と変化していき、「むつ」に「六」が当てられ数字の「六」の大字が「陸」なので、「陸奥」に「みちのく」と「むつ」という読みが当てられるようになったという説がある。
・・・・こんな話を書いていると、予定になかったことをまた思い出してしまうので、今回はここまでに。
こんなお話は大好きなので、またいずれ、別の機会に。
(と、言いながら書いていない話が、過去にも結構あるなぁ、と、反省中)