メンバーズブログ

小さなギモン調べてみました!

建築・不動産から言葉のトリビアまで、仕事の中で見聞きした小さなギモンを調べて報告していきます。

2013年11月のアーカイブ

今回は前回の続きで、10月初旬に多賀城ツアーに参加して、多賀城のことを色々と考えたりしたもので、その件です。

前回、多賀城は「国府」じゃなくて「鎮守府」ウリにした方がスペシャル感がでていいんじゃないか、とか、そんな話で終了でした。

なので、今回は、ちゃんとツアーで巡ったことを踏まえての話をしようか、と。

まぁ、脱線する気は満々ですが。

---------------------------

「国府多賀城駅」に集合した後は、駅前の「館前遺跡」という、多賀城に赴任してきた国司の邸宅跡とも言われている場所、といっても台地状になったただの野っ原ですがを通過して、まずは多賀城碑へ。

こんな覆堂の中にあるのが、多賀城碑

江戸時代初めに発見され、壺の碑(つぼのいしぶみ)だということで、当時の観光名所でした。

「壺の碑」というのは、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で陸奥に行った時に、「ここが日本の果てだ」ということで鏃で書いた文字が刻まれている石碑ということになっていて、平安時代後記から「果ての地へ思いを馳せる」「どこにあるかわからない」といった主題で和歌に歌い込まれた歌枕の言葉になっています。当時からどこにあるのかわからないままに有名だったようですが。

しかも書かれている文字は「日本中央」ということになっていて、都から見れば最果ての地なのに「日本中央」って、なんで書いたかなぁ、ってところも色々謎でして。

それが江戸時代になって、この地・多賀城で古い石碑が発見され、「これこそが『壺の碑』だ!」ということで、名所になったわけなんですが、現在の研究では、「壺の碑」ではないことになっています。

覆堂のDSCN0310.jpg中には、こんな石碑があるわけですが、何が書いてあるかといえば、平城京や常陸国等から多賀城迄の距離と、神亀元年(724)に多賀城を設置して天平宝字六年(762)に多賀城を修理したことが書いてあります。

そりゃ、書いてある内容が全然違うんだから、「壺の碑」じゃぁないですよね。逆になんで「壺の碑だぁ!」と言っちゃったかの方が話しとしては面白いのですが、その件はとりあえずここでは割愛。

「壺の碑」ではないにしろ、8世紀の貴重な記録であることには変わりないので、栃木県にある「那須国造碑」と群馬県にある「多胡碑」と共に日本三古碑と呼ばれています。

本当の「壺の碑」はもっと北にあったと言われており、青森にもこれに比定される碑があったり(そっちには「日本中央」って書いてある!)、記録には残っているものの崩れたり、水没したりしてしまったという話がもっぱらです。

 

ここでも思うのは、未だに「壺の碑」で名を押そうとする資料が多いことで、もう違うことははっきりしているんだから、正直に「8世紀の貴重な石碑」ってことで統一すればいいのに、ということです。

芭蕉が訪れ、井原西鶴や新井白石、水戸光圀等も「壺の碑」だといわれていたので、色々研究して書き残しているという事実だけでも充分価値はあると思うのですが、前回の「国府」押しといっしょで、誰かが変な方向に話を盛っている感じがするんですよね。

 

さて、多賀城碑を見た後は、いよいよ「多賀城政庁跡」へ向かいます。

幅約23mという古代の大路の先の小高いところに政庁跡は有ります。

DSCN0313.jpgこのだらだらと登りになっている大路と階段を登っていると、古代の中国の城などにも見られる、登庁者が自然と前かがみになって頭を下げて歩くことになり、首長にかしずく様を強制させる仕組みを思わせます。

南北大路と呼ばれるこの大路は、当然当時の中央政庁である平城京へと、最終的にはつながっていたと思うのですが、陸奥のこの地と平城京を繋ぐ道が「東山道」であったはずです。

 

奈良から平安の頃の行政区画を表す言葉に「五畿七道」という言葉があります。

「五畿」とは、平城京を中心とした畿内にある五つの国、「大和」「山城」「河内」「和泉」「摂津」のことを、そして「七道」は、ここから伸びるメインストリート(と言っても、山陽道以外の道路はそれほどの幅員はなかったようですが)を中心とした行政区画のことで、「西海道」「南海道」「北陸道」「山陰道」「山陽道」「東海道」と「東山道」のことです。

ここでいう「道(どう)」は、道(みち)のことも指しますが、その道を中心とした行政区画のことなので、その地方、その道路を中心とするエリア、その道路が通過する国々全体をまとめて指す言葉です。

行政区画とは言っても、その行政単位ごとの行政機関は基本的にはなく、唯一「西海道」・・・現在の九州一帯・・・のみ、外交や防衛上の観点から「大宰府」が諸国を管轄したようです。

「北陸」「山陽」「山陰」「東海道」等は、今でも当該エリアを指す言葉として残っていますし、高速道路の名称にも使われたりしていますが、その大元はこの「五畿七道」(「畿内七道」とも言いますが)のエリア分けに由来するものです。

そういえば、「東京都」の「都」、「京都府」等の「府」、そして「宮城県」等の「県」は、なんとなくエリア区分として理解できるけど「北海道」の「道」って、何?・・・って考えたことありませんか?

実は「北海道」というのは、元々あった「五畿七道」に、後に把握する事になったエリアに対し、先の「七道」の流れで、8番目の「道」として加えられた行政区分だったので、「北海道」といい、これが今も残っている呼び名なんです。

その意味では、「北海道」は複数の国々を含む全体を指す区分なので、実際には制定当時、11の国に分割されていました。つまり、「東山道」に「出羽国」や「陸奥国」があったように、「北海道」も「十勝国」や「日高国」等があったわけなんです。

とは言っても、正式に「北海道」が制定され「五畿七道」が「五畿八道」になったのは明治2年のことなのですが。

このような、「国」としての行政単位と道路を基準にした複数の「国」を一つのエリアとしてまとめてみる考え方は、「律令制」による「令制国」という区分なのですが、7世紀から明治に入るまで(多少の国境の変更や合併分割はありながらも)続いていました。厳密に言うと、廃藩置県があった後にもこの「律令制」が法としてなくなったわけではなく、事実上廃れてしまって使われなくなった、ということらしいですが。

・・・話がそれましたが、その「東山道」は平城京から「近江国」「美濃国」「飛騨国」「信濃国」「上野国」「下野国」と続き「出羽国」そして「陸奥国」へと至るエリアのことを言いました。

前回にも書きましたが、「陸奥国」とソレ以北の蝦夷のエリアとの境界は、進軍・征伐の状況に合わせてどんどん北進していましたから、一点を指して「陸奥国」と表現するのは難しいのですが、多賀城が「鎮守府」であった時には、この「東山道」の道としての終点、エリアとしての最北の地であったことは間違いないはずです。

個人的にはこの「東山道」としての括りで「多賀城」の位置づけを理解し、街道沿いの国々とともに「東山道」オシで周遊観光施策など考えたら面白いと思うのですが、どうでしょうかね。

古代の道路に関しては、他にも色々な話がありますが、これまた長くなるので、又の機会に。

-----------------------------------

なんとか、政庁跡までたどり着きました。

でも、政庁跡そのものの話しは、さっぱりしていませんけどね。

しかも、やっぱり結構な長さになってしまいましたので、今回はここまでにします。

ツアーではこの後、付近の神社などもめぐっており、これがまた中々面白かったのですが、その話は当然のように次回に続きます。

この記事を書いた人

斉藤 一則

最近書いた記事

他のメンバーを見る

  • ちょっと知りたい不動産の一口知識
  • 四方山雑記帳
  • hariu Blog
  • めっけもん
  • 仙台・宮城のうまいもの&直売所めぐり
  • コバチャンの深〜い話
  • 小さなギモン調べてみました!
  • 建築と風景
  • ぽらぽら物語り
  • ほっとひといき!
  • マクロの眼
  • ローカル・グローバル
  • トキの目
  • 空飛ぶ「こころ」
  • 黒ひげのモノローグ
  • まるでかく
  • 女将のつぶやき
  • インフォメーションブログ