先週の土曜日(4月22日)、上京したついでに正宗の弟が住職を務めていたという、東京都あきる野市の大悲願時に行ってきた。
東京には平成12年春まで32年間住んでいたが、あきる野市へは行ったことがなかった。東京駅を10:30頃の中央線青梅駅行に乗車し、拝島まで約1時間。拝島駅で1時間に2本しか運行が無い五日市線に乗り換え、五日市駅の一つ前の駅「武蔵増戸駅」まで30分ほど。乗り継ぎの待ち時間を合わせると約2時間ほど係る東京都の西北にある里山の地だ。
なにせ初めての地故、方向が判らず紆余曲折して大悲願寺まで歩いて30分(お寺の紹介では15分と書いてあるが)ほどで辿りついた。
大悲願寺は真言宗豊山派に属し、建久2年(1191年)建立されたと言われており、現在まで震災や大火にも遭わず、歴史建築物の少ない関東では希少な建物とのこと。
大悲願寺は想像以上に立派なお寺で、道路に面して長い板塀が張り巡らされ、そこには3つの門がある。有名な仁王門を覗けば、国の重要文化財に指定された「木造阿弥陀三尊像」が安置されてる観音堂には多くの人が。
寺内に入りウロウロしていると住職らしき人が、「すみません。伊達政宗の弟小次郎の墓などはあるのでしょうか」と尋ねると、「今から法話があるので、一緒に聴いて下さい」とのこと。何とこの日は普段では見られない「阿弥陀三尊像」の御開帳日であるというラッキーな日であった。
小さな観音堂の中は檀家や観光客で一杯の中、第36代住職の法話が始まり、大悲願時の成立ちから始まり、重文「阿弥陀三尊像」の解説、そして最後に、鮎漁と称して時々伊達政宗が訪れていたこと。当時お寺には「秀雄〈シュウユウ)」という伊達政宗の弟小次郎が仏門に入っており、この方が正しく正宗の弟小次郎であったこと。その後第15代住職を勤め、中野にある「宝仙寺」へ移り一生を終えたこと。などを詳しく解説してくれた。その中で住職は、政宗・小次郎(秀雄)の父には側室はおらず、妹二人と計4人の兄弟であり、秀雄は正しく弟小次郎である。当時政宗は秀吉からの度重なる小田原攻め参陣の要請を無視続け、もし参陣しても自分は殺されるかも知れない。当時は家を存続させることが最重要で、自分が殺されたら家を継ぐ者が無くなり伊達家は滅びるとの思いで、参陣する前に徳川家康の重鎮に相談したところ、徳川が庇護する大悲願寺を紹介し出家させながら家を守る策を与えたという。そのような状態でNHKのTVドラマ「伊達政宗」にあるような参陣前に小次郎を殺害したというのは考えられないとのこと。なぜならば、政宗は非情な人間と思われるかも知れないが、政宗が残した自筆の手紙(数千通はあるという)には、TVでは小次郎を手打ち後、山形の実家に帰した母義姫に対し、体調を気遣う心温まる手紙や、朝鮮征伐の時もわざわざ朝鮮から政宗が手紙を出し、母からも朝鮮へ正宗の体を気遣う手紙のやり取りが残されている。など心優しい武将であったと。
寺内には萩の植え込みの側に政宗が萩の株を分けて欲しいという「白萩文書」の説明書きもあり、政宗が弟小次郎と親しく交わった兄弟愛が感じられた。
9月頃に萩の花が咲くので是非また来てくださいとの住職の言葉に、再度訪れることを約束して充実した一日を過ごすことができた。 感謝 合掌