戦国時代から江戸時代にかけて、特に江戸時代には家督を継ぐ者がいなければお家断絶と言われていた時代。
藩主や豪族が正妻の他に側室を持つことは必然性があったことなのだ。
同じ兄弟とはいえ腹違いの兄弟の場合、勢力争いも激しく兄弟間での争いも多々あったはずである。
しかしながら、同じ両親から生まれた弟を兄がそう簡単に惨殺できるものであろうか。
講演者:佐藤憲一氏が俳句雑誌「滝」第275号(平成26年11月5日発行)に、『白萩の寺ー兄と弟』と言う題で、政宗と小次郎の、本当の姿はこうではなかったのかという寄稿文を載せている。
巻頭文には、《政宗は母保春院に毒殺されそうになったというのは真実か、政宗が弟小次郎を殺害したというのは本当か。「白萩の寺」の記録に残る秀雄こそ、小次郎その人ではなかったか。「伊達治家記録」を覆す憲一さん渾身の研究をお届けする》と書かれている。
「白萩の寺」とは、東京都あきる野市横沢にある金色山吉祥院大悲願寺(真言宗のお寺)の事で、この古刹に元和八年(1622年8月21日)に書かれた一通の正宗の書状が伝えられている。
この年八月に当時伊奈村と言われていた、あきる野市周辺に政宗が川漁(鮎漁)に訪れ、その時に大悲願寺に立ち寄ったらしい。「白萩文書」と言われるこの手紙は、当時の第13代住職:海誉上人宛に出されたもので、内容は、大悲願寺を訪れた政宗が庭に咲く白萩の美しさに心を奪われ、江戸に帰ってから使者を立てその株分けを所望したいというものであった。
当時の政宗と言えば徳川幕府の重鎮であり、わざわざ萩の株分けを所望するため、使者まで立てて大げさなと思わざる得ない。しかしながら、大悲願寺の歴代住職の中に法印秀雄という人物がいる。秀雄は海誉上人の弟子で、後に第15代住職となる。実はこの秀雄、寺の記録によると伊達政宗の弟なのだ。地元では政宗が寺を訪れたのも弟秀雄に会うためだったと言われている。
果たして、この秀雄は弟小次郎本人なのか・・・。